無 彩 色 




 翌日である。

 五代は瀬戸の店の前に立っている。
店の外からガラス戸を透して中をのぞいた。
ぼんやりとしか見えない。薄暗い店先には、古ぼけた大工道具が山とつまれていた。
何段にも折れ重なるように積まれた品物の上には、しっかりとほこりがつもっている。

 品物の谷間に瀬戸は座っていた。

 硬い1メートル四方の谷間である。
瀬戸はすでに仕事をしていた。
規則的に前後する手が、ギイーギイーという音とともに、五代の眼に入った。
硬い髪が、密実にはえた瀬戸の頭はそのリズムにつれて、ゆっくりと前後していた。
まるめた身体が手先の一点に、神経を集中している。
足でおさえた鳶色の板と一体になって、瀬戸の仕事は続いていた。

 鳶色の板のあいだには、ノコギリがはさまれている。
板の先から、いくつもの小さな黒色の三角形が、少しばかり頭をだしていた。
そのてっペんを、瀬戸はヤスリでギイーギイーと押していた。
瀬戸の手は同じ動作をくり返し続けていた。
ヤスリが、最後の三角形をすり終わると、瀬戸は鳶色の板をひっくり返した。
また同じ作業を続けた。
瀬戸は機械人形のように、同じ動作をくり返していた。

 暗い場所だった。
つみ上げた大工道具は、店内をわざと暗くするためかも知れない、と思えるほど暗かった。
暗いなかで瀬戸は、小さな歯先を見続け、ヤスリを押し続けた。
黒色が瀬戸のヤスリによって、銀色になる。
それは、三角形の連続であった。
五代は、瀬戸の分厚い唇を思いだして、ゾツクと身ぶるいした。

 いつもは、瀬戸の店の前を通っても、五代が店の中をのぞくことなどなかった。
きょうは不思議な心具合であった。
五代はガラスにうつった自分の顔に気づいた。
そして、ガラス戸から離れた。
五代ののぞいたガラス戸は、内側から砥の粉色の和紙がはってあった。
そのガラス戸の下のほうに、小さなクモがとまっていた。
三角のすみに密集した灰白色の巣をかけていた。

 五代は通りにでて、駅まできた。


 五代は大学のある駅まできて、電車をおりた。
人ごみの中を、ボソボソと歩いて大学へ向った。
授業のはじまりには少し遅れた。
教室に入ると、数人の学生が教卓の方を向いて座っていた。
五代は教壇に立ち、喋りはじめた。
五代の口から音がでた。
教室のなかをゆっくりとまわって、学生たちの上におちた。
音が学生たちのところでとまらず、床まで沈んだ。
音はしばらくそのまま床の上にただよっていた。
希釈されて、いつの間にか床にすいこまれた。

 学生たちのニキビ混りの顔が、そろって五代を見た。
汚れた髭の毛の下についた目玉から、視線がのったりとでて、よたよたと五代のほうへ歩いてきた。
いやな気がした。
しかし、五代は喋り続けた。

 昨日の深夜、五代が自分のアトリエで、こねまわした油絵の具のカスが小指についていた。
それはもちろん学生たちのところからは、見えるはずもないくらいに小さなな汚れであった。
五代は、学生たちに見える角度に手首をひねった。
しかし、当然のことながら、学生たちは手首には無関心だった。
不自然にひねった手首の絵の具は、五代の皮膚をとおりぬけて、肉のなかへもぐりこんだ。
腕の中心に骨というビニール製のパイプがかよい、白磁製のカゴのなかにかたい心臓を意識した。
油絵の具のにおいがただよった。
2本のチューブから押しだされた油絵の具が、より合わさってねじれた。
対のしま模様ができた。


 授業の終了を知らせる鈴がなった。
いつもだと、誰かしら学生が質問にくるが、今日は誰もこなかった。
そのまま授業を終えた。
廊下にでると、油絵の具を思いだして、小指を見た。
やはり、まだカスはついていた。
むりやり爪でこそげ落すと、皮膚が赤くなった。
その赤くなった部分を唇にあててみた。
ひんやりした冷めたさが、唇に感じられただけであった。
すぐそれも感じなくなった。
無性に腹立しくなり、思わず歯をたててしまった。
あまりの痛さに立ちどまり、バツの悪い思いがした。
周りを見まわしてみたが、誰も五代を注視している者はいなかった。
ホッとして、五代は小指をなめつづけた。

 五代は街へでた。
電車に乗った。
家へ帰るのではない。
五代の妻を留美子というが、その実家に行くのである。
留美子は金満家の娘で、今風のとんがった顔をしていた。
やや浅黒い顔色も、茶っぽい髪の毛とよく似合っていた。
長い首も決っして不釣合な印象を与えなかった。
留美子は薄い皮膚の下に、小柄でしなやかな肉を隠していた。
すでに若い頃とちがって、留美子の肌はやわらかくなっていた。
そっとつまむと、薄くなっていくらでものびた。
今の留美子には、乳房の下にできるようになった皺が、気づまりの種であった。
ふくらんだ乳房が、下のほうで胸に接っする時、線が2本になるのである。
しかし、留美子はひじの皮が茶色くなったのも、尻の肉がうすくなったのにも、気づいてはいなかった。
夫婦生活の時、留美子はいつも自分のへそを押せと、五代に要求した。
そして、その刺激にみたされて、留美子はさの字になって眠りにおちた。

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