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無論、深夜にそんな声がきこえるはずはない。 五代の夢である。 それは昔日の留美子であった。 夢のなかで、留美子は仲間と楽し気にふるまっていた。 運動神経の良い活発な動作で、学生のあいだを泳いでいた。 その留美子が、数人の女友達と動いている光景はまぶしかった。 出血したままの臀部を、ぴったりしたズボンで包み隠していたが、ふとした時に、血と肉を感じさせた。 留美子の体は、衣服に隠されていた。硬くはったゴムボールのような肉は、かすかな体臭を放っていた。 彼女たちのまわりの空気は生臭いほどに若く、そして、単に事実としてだが、熱かった。 その中でも、留美子は美人であった。 一種の寵児であった五代と留美子が、結ばれるのには時間はかからなかった。 五代は女友達を何人か持っていた。 しかし、留美子と出合ってからは、他の女友達とはつとめて疎遠になるようにした。 美術学部の学生のなかでも、才能を光らせ、五代の描く絵はいつでも話題になった。 彼が考えだした光る絵の具を使った絵は、見る角度や光の具合により、人に自由な想像を許した。 驚きをもって迎えられた。 それは、顔料と油でできている油絵の具に、蛍光剤を混入したものであった。 別段、特種な絵の具ではない。 蛍光剤の混入の仕方にちょっとした工夫がしてあり、上手く画布に定着された絵の具は、異様な雰囲気を創りだした。 五代が留美子と出合ったのは、そんな時であった。 夢のなかでの嬌声が大きくなり、五代の耳に耐えられなくなった頃、留美子の顔は変色しはじめた。 唇が真っ赤になり、上唇がめくれて拡った。 めくれた唇の表面には、血管が浮きでて、ピクピクと脈打っていた。 唇は額をこえて、クルッと頭皮をはいでしまった。 理科の解剖モデルのようになった留美子の顔は、赤い血管と青い血管が網状に走り、白い目玉がくるくるとまわった。 チューブから押し出された二色の油絵の具が、顔面を彩っている。 眼が球状に見える。両眼が白くなったとたんに、光景は転換した。 真白い部屋のなかの真っ白い壁に、五代が裸ではりつけられていた。 寒くて仕方なかった。寒さが身体の芯をのぼってきた。 いやな夢を見たと五代は頭をたたいた。 ふたたび眠る気にはならなかった。うつろな頭は空中にただよった。 隣でねている留美子の顔を見た。 もちろん、留美子は平常と何の変りもなく、いつもの顔をして眠っていた。 整った顔である。 ギイーギイーという音がきこえてきた。 きょう、道端で盗み見た瀬戸の仕事場の音である。 ギイーギイーと低く長く確実に続く音は、五代の腹部に、にぶい刃となって突き刺さってきた。 その音がえぐるように回転すると、五代はたまらず眼をとじた。 いつの間にか、ボロボロに錆たその音は、ポロッと床の上に落ちて消えた。 何も残さずに。 音のしないアトリエで、五代は油絵の具をいじっていた。 強くはった画布の上に色をのせていた。 指で押すと色は光り、光線を反射した。 テラテラといつになく光った油絵の具は、画布から流れだした。 画布から次々と流れだした油絵の具は、あとからあとから増え続けた。 床のうえを、銭苔のようにひろがった。 黒っぽい深緑の油絵の具が部屋中をうめつくした。 そして、反対に厚さをまして、五代のほうへと寄ってきた。 サワザワとした音と、ぬめっとした色が、足に登った。 それを指ですくいとると、ふたたび画布の上にぬりつけた。 それを何度もくりかえすうちに、画布が拡大した。 画布の布が枠からはずれ、まくれてきた。 そのまま身体にまとわりついてきた。 画布から2本の腕がのびて首にからんだ。 化粧のにおいのする指先を、耳の裏へとはわせてきた。 もう一つの体温を感じた。空気が重くなり、熱くなって、肉体をなめまわした。 そして、時間の長いトンネルヘとひきずりこんだ。 画布から流れた色がたち上った。 もう一つの体温は、次第に確かな手こたえをもち、肉として知覚できた。 体表がとけだした。 もう一つの肉の表面に粘りついた。 もう一つの肉と肉体が、ゼリー状にからみあって、灰白色の光をはなった。 ねり合わさった肉と、肉体がプレパラートのうえで、ピクピクと動いている。 もう一つの肉が、形を作ってきた。 薄紅色の斑点がうきでた。 もう一つの肉体である。 もう一つの肉体から、汗がドロドロと流れだした。 汗線が働きつづけている。 もう一つのの肉体の乳房をつかんだ手は、爪のあとを幾条もつけながら、もう一つの肉体の胸からすべり落ちた。 俯瞰された肉体は、光のなかで赤く張った。 ふきだした汗が、二つの肉体の間でぬめり、あたたかく体表を包んだ。 2つの肉体が、肉化した灰白色の小さな海でうごいていた。 灰白色のくもの巣が、2つの肉体をくるみ、厚い層となった。 それは硬いけれど、ゴム状の弾性をもった被膜を形成した。 |
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