奈良に遊ぶ  
2007.9.10−記
伊賀まで 伊賀から室生寺へ 室生寺にて
法隆寺の中庭 法隆寺から西の京へ 新薬師寺から白毫寺へ


第2日目   伊賀から室生寺へ  

 チェックアウト。
伊賀城は小高い丘の上にある。
9時前についてしまったので、建物はまだ開いていない。
駐車場で500円をとられる。
木々のあいだを、ゆっくりと歩きながら、松尾芭蕉の記念建物をめざす。
松尾芭蕉の記念建物

 奇妙な形の建物である。
二層の屋根をもった建物は、不思議な形をしている。
大きなお堂のような建物は、6角形平面のため、桁から軒先からすべてが、菱形 に交差している。
丸太材を使っているので、材の取り合いが難しい。
丸太が角材に食い込んでいる部分など、大工はさぞ苦労したことだろう。

 1段目の屋根はともかく、上の屋根が奇妙なのだ。
おそらく芭蕉が背負っていた箕の傘をイメージしたのだろう。
深いお皿を伏せて、その一部をぐにゃりと曲 げたような、不安定な形である。
屋根は檜皮で葺いてあるので、ひしゃげた形がいっそう強調されている。

 伊東忠太が設計に協力したとある。
昔の設計屋は、こんな芸当もできたのだ、と感心する。
技術的には大変だったろうが、しかし、建物は感心したできではな い。
建物に込める意志が感じられない。
計画を立てた者や設計者が、なぜこの建物を造ろうとしたのか、それが伝わってこない。

 松尾芭蕉へのオマージュだとしても、企画者たちは芭蕉の何に感動したのだろうか。
本当に彼の生き方や作品に感激したとしたら、こうした形の建物を造ろう とするだろうか。
芭蕉が有名になったからの、人寄せのための人気取りであり、芭蕉とともに生きる精神が伝わってこない。

 伊賀城の窓に、なにか見える。
人だろうか。近くで文化財の発掘をやっている。
それを見ながら、駐車場へと戻る。近くには県庁や学校がある。

 この町は、街の中心部を走る近鉄によって、お城を中心にした官庁と、繁華街に2分されているようだ。
繁華街は城下町だったと思われるが、道路は比較的直行している。
区画整理があったのであろう。
対向4車線の道路が、町の中心部を貫通している。

 大通りから細い道にはいる。
すると、たちまちくねくねとした路地になり、このあたりは、いかにも古い城下町である。
狭い道幅に、車のすれ違いにがおおご とになる。
1台の車で、ほとんどいっぱいの路地は、ときどき現れる対向車には神経を使う。
しばらく細い路地をのろのろと走る。
 
瓦屋根の意味するもの
 伊賀をでて田園地帯を室生寺に向かう。
その前に、極楽寺に寄ろうと、まず名張をめざす。

 車窓に見えるのは、平野を取りかこむ低い山並みである。
山の麓には、何軒かの民家が集落をつくっている。
和瓦葺きで統一された民家が、何軒かまとまって集落をつくっている。

 かつての家は、地元の材料を使って建築された。
だから、ふつうの家の屋根は、藁葺きや茅葺きだった。
瓦はお金持ちしか、使えなかったはずで、庶民たちは時代が下ってから、やっと使えるようになった。

 瓦を使っていることが、この地方が裕福だった証である。
住んでみれば使いづらい民家も、遠目にはのどかで、馴染んだ風景だ。
田んぼがひろがり、ゆったりとした田園風景がつづく。

 重い屋根は地震に弱い。
だから今では、屋根に重い瓦をのせるのを嫌う。
しかし、瓦屋根の家を建てることは、お金持ちになったようで、庶民たちには自慢だったと思う。
庶民たちの誇りと見得が、瓦屋根から伝わってくる。

 農業に従事していただろう人々は、みな瓦屋根に憧れたのだろうか。
この地方には瓦以外の屋根は、あまり見あたらない。
瓦屋根のしたで、どんな生活が営まれたのであろうか。
瓦屋根の風景は、豊かな気持ちにさせてくれる。

 この地方にも、軽い屋根の文化住宅が、普及し始めてはいる。
1軒だけを見ると文化住宅も良いが、文化住宅が集落をつくると貧相に見える。
瓦屋根がつくる豊かな風景も変わっていくだろう。

山の中のお寺
 極楽寺をさがして、山のなかを走る。
看板は出ているのだが、なかなかたどり着かない。
近くまでは来ている。
しかし、わからない。
地元の人に聞いたり、工事のオジサンに聞いたりながら、やっとのことで到着。
車を降りて、階段を上る。

 山のなかの鄙びたお寺で、もちろん観光客は誰もいない。
それどころかお寺の人も見あたらない。
陽光だけが照りつける。
小さな山門のしたで、しばらく本堂 を眺める。
特別にどうということはない。
ありふれたお堂だ、と言ってしまってはバチが当たる。
振りかえれば、村が目下に見える。

 こうしたお寺は、どこの村落にもあった。
かつては村民のより所だったのだろう。
山門の裏に回ると、明治以降この村から出ていった戦争の死者が、30人く らい墓碑に記されている。
死者たちは村の大事な働き手だったはずで、彼等を失うことは村にとっても、たいへんな痛手だったろう。
合掌。

 今では村の人口も減っている。
テレビなどが直接に、中央からの情報を伝える。
お寺が村民のより所ではなくなった。
行政主導でコミュニティ・センターと か、何だかよく判らない施設もつくられている。
村民だって、葬式の時くらいしか、お寺に用はない。
そのため観光寺以外は、どこも閑散としている。

 奈良は見るべきところが、各地に散らばっている。
とくに室生寺は、奈良市内から20キロも離れている。
奈良市内から近鉄で行くことはできるが、室生にある他の見所となると、なかなか行くことが難しい。

 今回は車だから、なるべく行き難いところへと、足を伸ばす。
清蓮寺ダムのほとりを南下し、南から室生に戻ってくるコースをとる。
平野から山間部へと、だんだん風景がかわってくる。

 小さなお寺や神社をみながら、よく整備された道を曽根村に向かう。
途中、狭い部分もあるが、完全に舗装されて快適。
立派なトンネルをくぐったところを右折、ぐっと道が狭くなる。

 山間部のひなびた風景が続く。
平野部とちがい、建物はぽつんぽつんと点在している。
雪が降るのだろう。
ここでは茅葺きの屋根を、トタンでおおった建物が多い。
もう茅の葺き替えが、できなくなっているのだろう。

 茅葺きの屋根は、瓦屋根に比べると急勾配である。
あたりに見える畑も狭く、何となく貧しい生活が忍ばれる。
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