奈良に遊ぶ  
2007.9.10−記
伊賀まで 伊賀から室生寺へ 室生寺にて
法隆寺の中庭 法隆寺から西の京へ 新薬師寺から白毫寺へ


第3日目   法隆寺の中庭  

 朝、法隆寺へとバスに乗る。
通勤客がたくさん乗っており、遊びに来た者はちょっと肩身が狭い。
バスは街を抜けて、田園地帯を走る。自分で運転しないと、気が楽だ。
15分くらいたったろうか、シャープの工場前で、ほとんど全員が降りた。


 小さな子供を連れたお母さんが乗ってきた。
そのお母さん、半袖のシャツから見える腕には、立派な彫り物が見える! 
ほっそりとした色白の女性で、見ては失礼と思いながらも、谷崎の「刺青」を思い出しながら、腕の付け根をじろじろと見てしまう。
極道の妻なのだろうか?

 バスは走り続ける。
やがて、法隆寺の五重の塔が見えてきた。
相輪が気になる。
法隆寺バス停で下車。
正面に続く参道を歩く。
法隆寺はいつ来ても、何か発見がある。
今回はどんなことに気づくだろうか。

 拝観券を買って、中庭に入る。
まず相輪の傾きをみる。
傾いてはいない。
やれ安心。

 中門を背にして立つ。
右手に金堂、左手に五重塔。
むこうに講堂が見える。
中庭に立つと、見る者を押し包むような、緊張感が迫ってくる。
建物は飛鳥様式で、大胆にして豪壮である。

 法隆寺中庭のこの緊張感は、他のどこのお寺にもない。
法隆寺独特の緊張感である。
回廊をめぐらした中庭だから、緊張感が高いのではないだろう。
回廊をも つお寺は他にもあるが、他のお寺でこんなに強い緊張感は感じない。
この緊張感は、今まで飛鳥様式のせいだろう、と考えていた。

 雲肘木をもつ建物は、飛鳥様式に特有であり、法隆寺の末寺である法輪寺や、法起寺でも見ることができる。
しかし、法輪寺や法起寺は三重の塔である。
また法隆寺と比較するには、遺された神殿の完璧さがちがいすぎる。

 近所にある薬師寺が再建され、三重の塔と金堂や回廊などを整備している。
しかし、薬師寺は白鳳様式であり、法隆寺とは違う。
裳階(もこし)をもった三重の塔など、再建されつつある薬師寺も、見るべきところはあるが、法隆寺ほどの緊張感はない。

 金堂や五重塔をしげじげと眺め、安定した姿にあらためて感心する。
安定しながら豪壮であり、動的な躍動感がある。
この造形は一体どこからくるのだろう か。
ほとんど禿げてしまった塗装が、かえって躍動感を高めているのだろうか。
中庭をあちらへ、またこちらへと移動しながら、眺めまわす。

 今までは気にしていなかったが、中庭に勾配がついていることに気がついた。
中門から金堂から講堂へと、ずいぶんと上り勾配である。
建物が建っている場所は、水平になっているが、建物の建っていない部分は、はっきりと傾斜がついている。

 飛鳥の職人たちだって、地面を平らにする技術はもっていた。
とすれば、中庭の勾配は、自然の地面にしたがったものではないだろう。
意識して勾配をつけたのだ。
中門をくぐって、中庭に立ったとき、中庭全体が参拝者を取り囲むように、わざと傾斜をつけたにちがいない。

 時代が下るにしたがって、建築物は精緻になってくる。
精緻さに目が奪われて、建物が建っている大地に、目が届かなくなりやすい。
しかし、建物を支えるのは大地であり、職人たちが最初に手を加えるのは、建物がのる大地なのだ。


 伽藍配置という言葉があるが、配置とはただ位置を考えるだけではない。
水平面に建物を配置をすると思いがちだが、配置には必ず高さが込められている。
法隆寺の設計者たちは、伽藍が完成したときに、どのように見えるかを考えたはずだ。
とすれば、高さは常に重要事であった。

 東大寺や西大寺を見ると、水平面に立っているようだ。
少なくとも中庭に、傾斜をつける意識はないように感じる。
中庭にあれだけの勾配をつけた寺院は、他にちょっと思い出せない。
法隆寺は若草伽藍の再建だと言われている。
再建前の若草伽藍は、どうだったのだろうか。

 法隆寺は世界最古の木造建築である。
この触れ込みに目がいってしまい、建物が建っている地面に、いままで目がいかなかった。
法隆寺が固有にもつ中庭の緊張感は、飛鳥様式という建物のディテールが生みだすものではなく、法隆寺の建っている地面の勾配が、つくっているのではないか。


 法隆寺に来始めて何十年もたつ。
何度も中庭に立った。
いつも、中庭の強い緊張感は感じていた。
しかし、それが何によるのか、ずっと判らないままだった。
完璧に遺された神殿だったから、また千年という年月がつくっている、と思ったりもした。
今やっと判った。
地面の傾斜のせいだろう。

 法隆寺の職人たちにとっては、建物そのものを造ることと同時に、中庭の空間を作ることに、大きな関心があったに違いない。
講堂こそいくらかの内部空間があるが、金堂だって五重塔だって、内部空間はなきに等しい。
建物の内部で祈ることはできない。

 斑鳩の人たちは、中庭で祈ったのだろうか。
それとも、中門の外から拝んだのか。
今は開いていない中門の外から、中庭を見たのだとすると、水平より傾斜を付けたほうがより良い。
いずれにせよ、中庭という空間の質が重要だった。

 彼等は空間の質を決めるのは、建物の配置とプロポーションだと考えていた。
法隆寺の中庭という空間を作るため、必要な材料とディテールを欲したのであ り、建物の内部構造はそれを支えるものでしかなかった。
仏に捧げる建物でありながら、人間との関係を考えていたように感じる。

 元来、寺院建築とは仏様の住まいであって、人間のためのものではない。
そのため、仏様を中心に考えがちだが、仏を考える人間は確実にいた。

 人間中心に考えすぎかも知れないが、人間や神仏の在り方が違うだけであって、神殿を造る人間がいたのは現在と変わらない。
法隆寺の中庭では、職人たちの作為をとても強く感じる。

 今では講堂の前に舞台をつくって、聖霊会がおこなわれるらしいが、ここに広場ができたのは後世のことだ。
創建時には、講堂は回廊と接続しておらず、回廊の外にあったといわれる。
その当時でも、地面の高さには、勾配がついていたはずだ。

 回廊が講堂にぶつかる部分は、ねじ上げになっているが、ここの仕事は荒っぽく不自然である。
無理矢理つないだ感じがする。
また、講堂と金堂や五重塔では、内部空間の取り方がまったく違う。

 金堂と五重塔は仏様のもの、講堂は人間のためのもの。
おそらく講堂は回廊の外にあった、と考えるべきだ。
とすると、中門の外からの見え方は、より一層重要だったろう。

 中庭の地面が傾いている。
この事実に気づいたのは、今回の旅の最大の収穫だった。
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