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鈴木源三と和子にしても、手をだしていいのか悪いのかわからず、すこぶる落ちつかない朝だった。夜中に何度も起きた鈴木清は、いささかの寝不足だった。しかし、すでに以前から、赤ん坊の準備を整えていた鈴木清は、何とかやりくりして会社に出かけた。 和子は、いつの間にか赤ん坊を抱いていた。 「あっ、この子はなんて名前なの」 鈴木清が会社にでようとするとき、和子はあわてて聞いた。 「リン。鈴って書いて、リンと読むんだ」 「リン。いい名前ね」 「いってきます」 「いってらっしゃい。ほら、お父さんがお仕事よ、リンちゃん」 和子は、目の前にいる赤ん坊を、放っておくわけにはいかなかった。和子はリンを引き受けるとは、明言していなかったが、まず今日だけは預かることにした。 リンをひきうける決意は、まだ言葉にこそ表してなかったが、すでに和子はリンを抱いている。和子の内心は、自然と行動に現れていた。小さな生き物を抱いて、和子は嬉しそうだった。 鈴木清は、いつものように電車に乗り、いつものように職場についたが、今日やるべきことは、いつもと同じではなかった。まず、総務課へ行った。そこで、担当の女性に向かって、 「子供ができたんで、扶養家族の手続きをしたいんですが」 といった。 担当の女性は、事務的ながら 「おめでとうございます。この用紙に記入して下さい」 と言って、一枚の紙を差し出した。 「長い間、待っていたんで、もう嬉しくて」 鈴木清は、余計なことまで喋ったが、女性はたいして気にする様子でもなかった。 「そうですか。それは嬉しいでしょうね。それで、女の子ですか男の子ですか」 「女の子なんだ」 「ご両親もお喜びでしょうね」 と、その女性は当然のごとく言った。 「いや、驚いているよ」 という鈴木清の発言を聞いて、女性は妙な顔をしたが、それ以上には追及しなかった。 「それで、お名前は」 「リン。鈴って書いて、リンて読むの。きれいな音でしょ。どこにいても判るように、リンっていうんだ」 今度は、はっきりと不思議そうな顔をした。 鈴木鈴。確かに不思議な名前である。鈴に挟まれた木なのだから。しかも、れいと読むならまだしも、リンと読ませるのは奇妙な感じがする。 「はあー」 と女性はいったが、鈴木清は聞いていなかった。 「僕に似ているって、みんながいうんだ。赤ちゃんってかわいいね」 女性は、しばらく黙っていたが、突然、 「でも、鈴木さんは、独身じゃあなかったですか」 といった。 「そうだよ。独身男性が子供をもっちゃいけない。独身だって子供をもてば、扶養家族にいれたって構わないだろ」 鈴木清は何の疑問もなく言ったが、担当の女性は明らかに戸惑っていた。 「それはそうですけど。ちょっと待って下さい…。課長ーお」 と言って、席をたった。そして、課長のほうへ行ってしまった。 ずいぶん待たされてからだった。鈴木清は、課長席まで呼ばれた。鈴木清が椅子に座ると、 「珍しいね。鈴木君」 総務課長は、何と説明しようか戸惑っているのが、ありありと見えた。 「離婚した人が子供を扶養家族にするとか、独身者が親を扶養家族にするってのはね、よくあるんだけれど…」 「はあー」 鈴木清は、気が抜けた。 「扶養家族にはできないんですか」 「未婚の男性が、子供を扶養者とする前例がないんだよ」 「それで…」 「少し時間をくれないなか、検討してみるから」 「はあ、そうですか。僕の子供なんですけどね…」 改めて前例がないと言われると、反論することもできずに、鈴木清は引き下がる他はなかった。 そのあと鈴木清は、自分の課に戻ってきたが、自分の机には座らず、直属の上司である係長のところへ行った。 「係長、ちょっと相談があるのですが…」 そう言いながら、鈴木清は係長席の横に椅子をもってきて座った。 「なんだい」 係長は気楽に答えた。 「実は、子供ができたんです」 「それはめでたいことじゃないか」 そう言ってから、係長は怪訝な顔になった。 「鈴木君は、まだ結婚していなかったんじゃないか」 「そうです。でも、子供ができたんです」 「そうか、それで結婚の話しか。できちゃったの出来ちゃった婚か、それもいいな」 と係長は洒落を言った。 「いや違うんです。結婚はしないんです」 「結婚しないで、子供だけ」 「そうなんです。これから僕が子供を育てるので、よろしくとお願いに来たんです」 「はあ…」 「子供の世話をしなければならないので、しばらく定時で帰らしてもらいたいんです。今までのように、残業とか休日出勤はできないんですよ」 鈴木清が、当たり前のように言うと、係長はしばらく言葉を失っていた。やっと、 「そりゃ、時間外は強制できるものじゃないから…」 と係長はいった。まだ何か言い続けたそうだったが、何と言っていいか判らずに、言いよどんでしまった。 「じゃ、よろしくお願いします」 そう言って、鈴木清は立ち上がった。 |
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