ハーイ ベイビイ
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 三日後に、鈴木清は再度区役所に行った。そして、今度はリンを連れていた。受付を素通りして、課長席にとおされた。
「わざわざ、お手数ですね」
課長は愛そうが良かった。
「これが僕の子供ですよ。女の子でね、リンていうんです」
と、鈴木清は課長にリンを紹介したが、もちろんリンは、何の反応も示さなかった。
「今日は部長も同席したいと言っていますので、部長席のほうへ移ってもらえますか」
と課長が言った。
「ええ、いいですよ」
と、鈴木清は気軽に応じたが、これは大問題になってきたと、内心すこし不安になってきた。
 課長が先頭にたって、鈴木清とリンを部長室へと、案内した。部長室には、人の良さそうな小柄な男が、にこにこと笑いながら立っていた。
「はじめまして、大木と言います。まあ、おかけください」
と言って部長は名刺を差し出した。
「はあ、どうも、鈴木です。それに娘のリンです」
「今回は娘さんのことで、何というか、ご理解いただけないことがあるようで…。課長から報告を受けましたが」
「ええ、出生届を受理してもらえないんですよ」
「お母さんの名前を記入してもらえば、すぐ受理しますよ」
すかさず課長が口をはさんだ。
「鈴木さんお一人のお子さんだと、おっしゃっておられるとか」
「産んだ女性は母親にならないと言っています。それに、私一人で育てるつもりですから」
「しかしですね、子供というのは必ず女性から産まれるんですよ。ですから、捨て子でもない限り、産んだ女性が判らないと言うことはありえないんです」
と部長は静かに言った。
「それは判りますが、父親は未記入でも受け付るというじゃないですか、なぜ、母親の名前を記入しなければならないんですか」
「それはですね。女性は必ず自分の子供だって判るんですが、男性は必ずしも親子関係が立証できるとは限らないんです」
「そんなことを言ったら、女性だって子供との関係は、立証できるとは限らないじゃないですか。生まれてすぐ病院で取り替えられたりしたら」
「ええまあ、昔は、そういう事故もありましたね」
部長は渋々同意した。しかし、すぐに言葉をついだ。
「今ではそんなことはないように、どこの病院でもきちんと管理しています」
「なぜ、女性の名前を特定しなけりゃならないのですか」
と、鈴木清。
「まずですね、嬰児誘拐の可能性があるんです」
「誘拐ですか。僕が」
「つまり産みの母親がはっきりすればですね、どこからか誘拐してきて、自分の子供としてしまうことは防げるんです」
鈴木清はあきれて言った。
「しかしそんなこと、誰か適当な女性の名前を書いてしまえば、防ぎようがないじゃないですか」
「実子じゃないのを実子とした時は、公文書虚偽記載という犯罪になるんですよ。ですから、この出生届っていう制度は、正しいことを言うという、国民の善意に基づいて出来ていおるんです」
「はあ…。しかし、母親になりたくないっていう国民の希望はかなえられないんですか」
「そんな臍曲がりな国民はいないんですよ」
「はあ、臍曲がりですか」
鈴木清の不機嫌な返事を聞いて、部長はあわてて言い足した。
「それに、その女性が育てたくないと言うなら、出生届を出してから、養子にだすっていうこともできますから」
「それじゃ、どうしても戸籍を一度は通らなければならないんですか」
「そうですね。まず、出生の事実を戸籍に記載するのが、大原則なんですよ。これをきちんと記載しないと、戸籍で国民を管理する根幹が揺るぎます。ですから、必ず母親の名前は、戸籍に記載するんです」
「なぜですか。ほんとうに母親の名前が必要なんですか」
「それはですね…。まあ、戸籍は国民のためにあるわけじゃあないですからね」
鈴木清は驚いて聞いた。
「じゃ、戸籍は何のためにあるんですか」
すると、部長は声を低くして、
「そんなこと、私の口からは言えませんよ」
と言った。
「母親なしで出生届を受理した前例はないんですか」
「そうですね。皆さん、両親の名前を戸籍に記載されることは望んでも、片親ということは隠したがりますからね」
と部長が言った。そして、その言葉を課長が継いだ。
「父親はなくても、母親は必ず記載されますよ、どなたも」
「たしか出生届の受理は、国からの委託業務だといわれましたよね」
と、鈴木清は聞いた。
「そうですよ、出生届の受理は国からの委託業務ですから、区には裁量権がないのですよ。ですから、慎重になっているんです」
それを課長が引き継いだ。
「だから区役所が決めることは出来ないんですよ。我々は通達にしたがうだけで、細かいことは法務省の権限なんですよ。鈴木さん」
「それじゃ、母親を空欄のまま受け付けて、国にきいてみてくれませんかね。ひょっとしたら、OKがでるかも知れないじゃないですか」
という鈴木清の言葉を聞いて、課長は部長の顔を盗み見た。
 部長はしばらく考えていた。どのくらい時間がたっただろうか、沈黙は長く感じる。部長の口からは意外な言葉がでた。
「判りました。たぶんダメだと思いますが、仮に受け付けて、国に問い合わせてみましょう。保留ですね」
と言ったのである。課長は驚いた。
「いいんですか、部長」
「父親不明の場合を考えるとね…。それに、どうやら本当に、この方のお子さんらしいようだし…」
という部長の言葉をきいて、鈴木清は
「そうですよ、初めからそうしてくれれば、よかったんですよ」
といったが、課長はすかさず、
「いや仮に受け付けるだけで、書類を預かるだけです。国に伺いをたててみます。母親未記入でどうするか、国が判断をするでしょう。それからです」
部長が鈴木清に書類を渡しながら言った。
「鈴木さん、この書類に記入して下さい」
出された用紙に、鈴木清が記入する。
「これでいいですか」
「はい、これで結構です」
と部長が言った。
「これで受理されたんだ」
「正式に出生届を受理したわけではありませんよ」
と課長が言った。
「でも、まっ、いいか。終わったんだ。これで晴れて、リンは僕の子供になったんだから」
「晴れてません。仮にですから、お間違えのないように」
と、部長と課長の両者から言われてしまった。

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