ハーイ ベイビイ
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 翌日、鈴木清は有給休暇をとった。そして、近くの区役所に出生届をだしに行った。区役所の窓口で、鈴木清は
「出生届を出したいんですけれど、用紙をもらえますか」
といった。窓口の女性は、
「病院で貰いませんでした」
と尋ねた。
「はあ」
と気のない返事をすると、その女性は
「ではこれに書いて下さい」
と言って、用紙を差し出した。
鈴木清は記帳台で記入し、出生届を窓口にもって行った。その用紙を見ていた女性は、
「ここ、お母さんの名前が空欄ですが」
といった。
「僕の子供ですから」
「ですから、お母さんの名前も書いて下さい」
「僕一人の子供なんです。母親はいません」
「母親はいませんって。だって、産んだのはお母さんでしょ。ご主人が産んだわけじゃないでしょう」
「ですけど、僕の子供なんですよ」
鈴木清がそう言うと、女性は
「ちょっと待って下さい」
と言って、奥の課長席へ行ってしまった。そして、なにやら課長と相談していた。しばらくして戻ってきた女性は、
「ちょっと、こちらへどうぞ」
と言って、鈴木清を課長席へ案内した。

 鈴木清は、課長と対面して座っている。まず課長から口を開いた。
「お子さんは、どのようにして生まれたんですか。病院でじゃないんですか」
「どのようにって、普通に生まれましたよ」
「いやお子さんは、あなたが産んだわけではないでしょう」
「当たり前ですよ。僕は男ですから、子供が産めるわけはないでしょ」
「いや、ですから…、お子さんをお産みになった女の方はどなたかって、聞いているんです」
「ですから、それは言えないんですよ」
「どうしてですか。犯罪者でもあるまいし。母親の名前を書いてください」
「彼女との約束ですから、言えないんです」
鈴木清がそう言うと、課長は気色ばんだ。
「まず、出生証明書なんですが、ここに母親の名前がない、と言うことは有り得ないんですよ」
「彼女が言いたくないって言うんですから」
「そんな…」
「産んだ女性が、必ず母親にならなきゃいけないわけじゃないでしょう」
と鈴木清。
「我が国では、母子関係は出生によって始まるんです。出産した女性が、母親に決まっています」
「今では、人工授精とか、いろいろな母親があるでしょう」
「それでも産むのは、その女性の子供ですから、産んだ女性が母親です。それが我が国の決まりです」
「えっ」
出生届を指さしながら、課長が言う。
「それに、出生証明をしているこの神山五郎という方は、どなたですか」
会話の通じないことに、課長はいらいらし始めた。
しかし、鈴木清は平然と応じる。
「神山さんの印鑑証明かなんか必要なんですか。出生を証明する者には、医師、助産婦、その他ってかいてあるじゃないですか。神山さんはその他の人ですよ」
「そりゃ、確かにそうですが、いまでは、子供は病院で生まれるんですよ。だから、出生証明は、お医者さんが書くことになっているんです。そうすれば、身長や体重だって判りますから」
「この欄は、それ以外の人で判らないときは、書かなくてもいいって書いてあるじゃないですか」
「いや、今は書いて貰わなくちゃ困るんです」
と、課長が言う。そして、
「それじゃ、お子さんがどうして、あなたのお子さんだと証明するんですか」
「僕と彼女が、励んだ結果できたんですから、僕の子に間違いないですよ」
「でも、産んだのは女の方で、あなたではない。女の方なら、父親がいなくても出生届をだせますが、男性はダメなんですよ」
「どうしてですか」
鈴木清が言うと、課長は当然だといわんばかりにいった。
「女の方は自分の子供だと判りますが、男性は子供との関係は判らないんですよ。あなたと赤ちゃんが、親子だって立証できないじゃないですか」
「ですから、僕が自分の子だって言ってるじゃないですか」
「それじゃダメなんですよ。こちらとしては、お母さんのお名前もお聞きしたいんです」
「そうしたことは、プライバシーに属するんじゃないですか。母親になりたくない女性だっているでしょう」
「それは許されないんです。子供を産んだ以上、女性は必ず母親になるんです」
「母親にならないことが、許されてないんですか」
「当然じゃないですか」
「えっ…」
鈴木清は言葉を失った。しばらくたってから、やっと口を開いた。
「女性は子供を産むと、自動的に母親になってしまうんだったら、代理出産でも母親になるんですか」
「そうです、出産が決め手です。我が国では、お腹を痛めた女性が母親になるんです」
「えっ、親子って遺伝子が決めるんじゃないですか」
「遺伝子なんて、役所には判らないでしょ。だから、遺伝子よりも判りやすい出産が、母親の決め手なのです」
「えっ…。それじゃあ、父親と母親の扱いが違うのですか」
「父親は判らないですからね、役所じゃ。届けられたとおりに父親としますよ。でも女性は出産があるから、わかりやすいじゃないですか」
「じゃ男はどうするんですか」
「母親の名前が書いてあれば、男はね…まあいいんですよ。まず女性です、母親です」
「そんな。男と女で取扱いが違うとは、性差別じゃないですか」
と、鈴木清は驚いて言う。
「とにかく、このままじゃ、戸籍が作れませんから。それに、母子手帳も添付していただきたいんです」
「自分の子だと言っても、区役所は認めないのですか」
「まさか、母子手帳なしで、妊娠していたわけじゃあないでしょう」
「さあ、それはわかりませんが」
「母子手帳のない妊婦なんて、わが国にはいませんからね」
「妊娠して、出産するかどうは、個人の自由でしょうが」
「女性が妊娠したら、妊婦の体は国が管理しているんですよ。知らなかったんですか」
「えっ…」
「母子手帳は、妊婦さんのためばかりじゃないんですよ。一応は、健康なお子さんを出産するため、と言うことになっていますが。ほら、胎児には戸籍がないでしょ。だから母子手帳は、国が胎児を管理するためなんですよ。生まれたら、戸籍で管理してますし」
「父親だって、必要でしょう。妊娠するには」
「胎児を管理するには妊婦だけで、男はいらないのです」
「そんな…」
「ですが、戸籍に関する業務は、国から委任されてやっていますから、区役所に何か言われても、我々ではどうにもできません。これは国の決まりです」
「妊娠した後は、男はいらないんですか」
課長は、冗談めかして
「まあ、そんなところですかね」
といった。鈴木清は、すぐに抗議した。
「そんなことはないでしょう。父の名前が記載されてない、ということはあるじゃないですか」
「とにかく、父親の名前が未記入でも受け付けられますが、母親の名前が未記入では受け付けられません」
「はあ…」
はっきりと断定されて、鈴木清は引き下がらざるを得なかった。再び来ることを約して、その日は引き下がった。

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