ベイビィ エクスプレス




 その晩、ジムから帰った相馬美紀が、ワインを飲みながらいう。
「女も40近くになると、誰も振り向かなくなるのよね」
若くない女性には、男たちが近寄らなくなる。
それが日本だった。

 去年、相馬美紀は初めて1人でヨーロッパ旅行をした。
すると、彼女は違う世界に出会った。
そこでは男たちが、官能的な視線を投げかけてくれた。
ひりひりするような刺激的な視線を浴びた。
それが彼女には、とても新鮮な体験だった。

「外国ならね」
ミキはお酒を飲むと、決まってそう言った。

「ところでヤマさ、きょう妊娠している人がジムにきてさ、びっくりしちゃった」
「へーえ」
山本恵子が応える。
「妊婦の水泳というのはよく聞くけど、エアロビで妊婦を見たのは初めてだよ」
「お腹が大きくてもできるの」
「大丈夫みたいね。同じようにやっていたわ」
「そーか、妊娠は病気じゃないから、少しくらい運動をしたほうが、身体に良いのかもの知れないね」
と、山本恵子が相づちを打つ。
「外国だと、出産後もすぐに退院するんだってさ。妊娠って大事件じゃないのかも」
「でもさーミキ、私達には子供には縁がないのかな」

突然、山本恵子が話題を変えた。
「子供という前に、ヤマは男でしょ」
と、相馬美紀が言う。ところが山本恵子は
「いや、男より私は子供だな。赤ちゃん」
と言った。
「ふーん。なぜ、男じゃなくて子供なの」


相馬美紀は不思議そうな顔をして聞いた。
「だって男はさ、勝手じゃない」
「そりゃそうだけれど、女だって勝手だよ」
「そう。だから勝手な者同士より、子供のほうが純で良いと思わない」
山本恵子が続けた。
「それに男は汚いでしょ。汗くさいし、髭が生えているし、脂ぎっているじゃん」
「たしかに、男は汚い」
それには相馬美紀も同意した。
「でもさ、子供のほうがもっと勝手だよ。お腹がすけば泣くし、機嫌が悪ければまた泣くし、まるで怪獣だよ。とにかく自分だけで生きているじゃない、赤ん坊って」
「赤ちゃんって、可愛いでしょ。何でも許せちゃうと思うのよ」
「ヤマは、そう思うか」
「赤ちゃんのウンチなら汚くないじゃん」
「ほう、たしかにそうだな。大人のウンチは勘弁だけど、なぜかね。赤ん坊だと、そうじゃない感じがするね」
「そうでしょう」
「じゃ男がいらないとすれば、家はあるし、あとは子供だけか」
そう言って、相馬美紀は笑った。
「仕事だって、普通にしていれば、もう先が見えてきたでしょ。女が出世するなんて、トンデモだわ」 
「だから子供ってわけ」
「何か生きる手応えってものが欲しいって、いつも思うのよ」
「自分の手応えのために子供じゃ、子供がかわいそうじゃないか」
「どうして、自分が何かする目的があれば良いんだから、子供でも良いでしょ」
「まあね」
「ボランティアだって、自分のためよ」
山本恵子はそう言った。
「いまどこに行っているんだっけ」
「『太陽の園』っていう老人ホームよ」
「そこで何やっているの、ヤマは」
「何でも屋よ。人手が足りないからさ、何でもやるのよ」
「何でもって言ったって、実際には何をやるの、たとえば」
「話し相手とかさ、オシメたたみとかさ、部屋の掃除とかさ、誰にでもできることよ」
「ふーん、そうか。オシメたたみくらいなら、私にもできそうだ」


 お金が目的なら、自分のためと言うことは判る。
1円にもならない働きが自分のためだという。
相馬美紀はそこがどうも良く判らなかった。
「でも、年寄りよりも子供のほうが良いね、私は」
と、相馬美紀が切り返すと、山本恵子も
「そりゃ子供のほうが良いよ。だって可愛いものね」
と言った。
「子供は可愛い。それは確かだね」
と相馬美紀も同意した。そして、しばらくたってから
「私達には子供はもてないのかね」
と山本恵子が呟いた。それを聞いて
「困ったね」
と言いながら、相馬美紀が力なく笑った。
ぐっとワインをあおった勢いで、
「まず男性獲得作戦でもたてるか」
と言ったが、どうも気合いが入らない。
「今さら男でもないよ」
と山本恵子。
「今時なかなかね、いい男はいないよ」
「職場の独身おじさんは冴えないし、か」
と言って、相馬美紀は苦笑いした。山本恵子が続ける。
「仕事をしていれば、お金には不自由しないでしょ。すると次はね、男じゃなくて子供ってなるのよね」
「男は力仕事の時にいればいいの。本当に必要なのは子供かもね」
と、相馬美紀が同意し始める。
「なんだか変な話になっちゃったね」
「変じゃないわよ。うざい男はいなくても生活が出来るけど、私の心には可愛い赤ん坊が必要だわ。ミキだってそう思うでしょ」
「そう、愛されるより、愛したいのよ。働く女は」
「でも私達には、赤ん坊は育てられないわね」
「仕事があるからね」
「皮肉ね」
「仕事をしているから、お金があって、男に頼らなくても生活できるのに」
「仕事をしているから、赤ちゃんがもてない」
「なんということだ」
「専業主婦になれってこと。勘弁だよね」
「しょうがないよ」
「赤ん坊を持つのは、私達には高嶺の花ね」
2人の話はまだ続いたが、だんだん愚痴っぽくなっていった。  

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