ベイビィ エクスプレス




 それから3日後、山本恵子が「太陽の園」へ行くと、神田貢が寄ってきた。
「山本さん、あの赤ちゃんだけど、区役所のほうから話が来たよ。いつまでもここには置けないからね」
「それで、どうなるんですか」
「児童相談所を通じて、まず施設へ保護されて、そこで里親を捜すそうだ」
「どうしてですか、引き取るという人間がいるのに」
「赤ちゃんは犬や猫じゃないんだ。もらいます。はい、そうですか。じゃあげますと言うわけにはいかないよ」
「なぜですか。こんなに欲しがっているのに」
「なぜって、子供が一番幸せになる道を、見つけてやるのが大人の勤めです」
「私達は、赤ちゃんを可愛がりますよ、幸せにしますよ」
「でも、山本さんたちは家族じゃないでしょ」
「2人で生活しているから、家族ですよ」
「結婚しているわけじゃないよね。山本さんは女性だから、母親は良いとしても、父親がいないじゃない」
「それは、そうですが」
「やっぱりちゃんとした家庭で、子供は育つべきですよ」
「えっそれじゃ、私達はちゃんとしてないんですか」
「いや、そういうわけじゃないけれど、普通の家庭じゃないでしょ」
「2人で生活しているんですよ。立派な家庭じゃないですか」
「2人といったって、父親がいないじゃないですか」
施設にだって父親がいないことを、神田は知っているはずだが、彼は父親を持ちだした。
「それだからって、施設へ行くんですか、この赤ちゃんは」
「仕方ないと思うな」
「こんなに赤ちゃんを欲しいと思っている家庭があっても、父親も母親もいない施設のほうが、育児の環境が良いというのですか」
「そう言うふうにとられると困るんだが」
「だってそうでしょう、私達はもう名前まで考えているんですよ」
「うん」

 神田貢は、だんだん声が小さくなってきた。
誰だって自分を愛してくれる人が欲しい。
小さな子供であればなおさら、親身になってくれる保護者が必要である。
それには施設より、ほんとうに愛情を持った生身の人間のほうがどれほど良いか。

 老人施設を運営している神田には、それがほんとうに良く分かる。
施設が悪いというのではない。
どんなに優れた施設も、個人の愛情にはかなわないと言うことだ。
ましてや、いまだ自我のない赤ちゃんを育てるとすれば、愛情をふんだんに注いでくれる人間が、どれほど必要か。
それは神田には良く分かった。

「だけどね、うちの前で倒れた女性から生まれただけだからね、その子を私が誰かにあげるというわけにはいかないじゃないか」
「それは分かります」
「だから、私としては、役所の指示に従うしかないんだよ」
「役所の指示が施設なんですか」
「役所としては、身よりない場合は施設へ送るんだって」
「そうですか」
「だから、あとは役所と交渉したほうが良いな。私としては、どうにもできないから」
「うーん、役所ですか」
「そう、児童相談所が窓口になっているんだって」
「分かりました」
 山本恵子が納得する様子を見せたので、神田貢はほっとした。
彼としても、山本達だって、子供を育てることは出来るだろう、とは思う。

 子供にとっても、施設より彼女たちの家庭のほうが、良いに違いない。
神田もそうは思う。
しかし、彼には子供の行き先を、決める権限はない。
けれども、これが単なる捨て子だったら、拾って育てる。
そんなことも昔はあった気がする。


 お寺の門前や裕福な家の前には、子供が捨てられていたという話は、戦後の混乱期にはよくあったという。
そのまま育てることだってあっただろう。
その頃なら、拾った子供を自分の子供として、戸籍にのせることもあった。

「昔ならね」
「えっ、何ですか」
「昔なら、捨て子を拾って育てることもあったと思ってさ」
「そんな話を聞きますよね」
「でも昔は、女性が子供を拾っても、女性だけじゃ養っていけなかったからね」
「そうですよ。女性の職場がなかったんですから。女性も養われたんですよ」
「男性が一家を構えている家じゃなきゃ、安心して子供を任せることは出来なかった」
「でも、いまは違うんです。女性だって、充分に収入がありますから」
「たしかにね」
「私のような公務員は、男女が同じですから。女性が独身でいれば既婚男性より、ずっと裕福で安定していますよ」
「そうだね。男性は妻子を養わなけりゃならないから」
「だから今では、女性一人でも充分に子供の一人くらい養えるんですよ」
「でも、やっぱり父親がいない家庭というのは変じゃないかな」
「父親がいない家庭というのは、たくさんありますよ」
「でもそう言う家庭だって、最初から父親がいなかったわけじゃないでしょ」
「子供には父親が必要なんですか」
「えっ!」
「ほんとうに男性が必要なんですか」

 そう問いつめられて、神田は答えが出なくなってしまった。
父親のいない家庭だって、この世にはたくさんある。
働き蜂のサラリーマン家庭では、男性の帰宅は遅い。父親はいないに等しい。

 片親の家庭だって、子供は育ってきた。
女性だけだって、経済力があれば、家庭は充分にまわっていく。
すると男性の役割は一体なんだろう。
神田は即答できなかった。

 神田自身が老人ホームにかかわってきて、老人施設が家庭の代わりだ、と言われることに抵抗があった。
それでいながら、施設はどんなに親身に世話をしても、家族の愛情にはかなわないと思う。
神田は複雑な心境である。

 施設は、身よりない人や家庭からはみ出してしまった人を収容するものだと、心のどこかで必要悪的な見方をしていた。
しかし、1人の男性と女性が作る家庭という制度が、人の幸せを保証するなんてことはない。
神田の施設にだって、ここは天国だと言ってくれる人もいる。
しばらくして神田が言った。

「山本さん」
「はい」
「児童相談所に行ってみませんか」
「そうします」
「もし保証人が必要とかいうんなら、考えてみるから」
「ありがとうございます」
「2人の情熱は分かるけれど…。残念ながら私には、この赤ちゃんを動かす権限がないから、今ここでは何とも言えないんですよ」
「はい」
「…」
「ところで、赤ちゃんはどうしています」
「ああ、元気ですよ。見ていく?」
「ええ」
2人は、宿直室へと歩いていった。

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