ベイビィ エクスプレス




 それから1ヶ月ほどしたある日、山本恵子が不思議な話をはじめた。
「今日さーあ、大変なことがあったんだよ。『太陽の園』にね、女の人が倒れ込んできたんだよ」
「ふーん、それで」
「誰もその人を知らないんだよ。ただ通りがかりって言うのかな」
「それでどうしたの」
「気持ちが悪いみたいだったから、とりあえず医務室に運んだの。その人はお腹が大きくて、今にも生まれそうなくらいだったんだよ。だけどさ、なんか発作が起きたのかな、『太陽の園』の医務室で、そのまま死んじゃったんだよ」
「えーえっ、救急車を呼ばなかったの」
「もちろん呼んだよ。でもね、救急車がきたときは、すでに死んでいたんだよ」
「そんなに急に死ぬなんてことあるの」
「分からない。とにかく死んじゃったんだよ」
「かわいそうにね」
「そうでしょう。もうみんなびっくりしてさ。年寄りは扱い馴れていても、知らない人が目の前で死んだら驚くでしょう」
「そりゃ驚くよね」
「死んじゃたから救急車は帰っちゃうしさ、とにかくベッドに寝かして」
「でもさ、そういう時ってどうするの。身よりに連絡でもするの」
「そう、どうするのかなーって見ていたら、ところがさ、それからが本当に驚いたんだよ」
「まだなんかあったの」
「死んだはずの女の人が出産したんだよ。もう救急車は帰ちゃったし…。死んだんだから警察だ、いや、また救急車だって、上を下への大騒ぎ」
「でも看護する人がいるんでしょ、『太陽の園』には」
「看護さんはたくさんいるけど、あの人達だって年寄り相手だもの。出産なんて立ち会ったことないでしょ。みな、あせりまくってさ」
「たしかに。そりゃあせるわね」
「不思議だね…。お母さんは死んじゃったけど、赤ちゃんは元気に生まれたんだよ」
「うそ」
「ほんと」
「そんなことがあるんだ」
「私はもうびっくりしちゃってさ、もちろん、みんな驚いていたけど、私は赤ん坊が生まれるのなんて知らないじゃない。もうほんと驚いたな」
「へーえ」
「でもさ、あそこの人たちを見直したよ。年寄りってさ、やっぱ人生経験が長いっていうか、そういう人がいたんだよ。おばあさんだったけど、ちゃんと赤ちゃんを取り上げたよ」
「りっぱだね」
「私なんて駄目。立派な中年とは言いながら、若いでしょ。一番びっくりしちゃって、ただ走り回るだけ。あとで恥ずかしいくらい。それに男も駄目だね、おたおたして」
「それはしょうがないよ。経験が違うんだから」
「お産て病気と違って、生まれれば何でもないんだね」
「どういうこと」
「だって生まれたら、赤ちゃんは泣いてさ。普通の赤ちゃんと変わらないんだよ」
「別に変じゃないよ。赤ちゃんって生まれたら、普通は泣くんじゃない」
「そうなんだけど、お母さんは死んだでしょ。死んだお母さんから、元気な赤ちゃんが生まれるって変だと思わない」

「別に」
「そうか」
「それで、どうしたの」
「ところがさ、また大変。その女の人は身元が分からない。分かるものを、なにも持ってなかったんだよ」
「どうなるんだろうね、そのあとは」
「警察か、区役所かって、これまた大騒ぎでさ」
「で…」
「届けはしたし、警察も来たけど、結局どこも引き受けてくれなくってさ。赤ちゃんも、それに死んだお母さんも行くところがないんだよ」
「うん、それで」
「だから今夜は2人とも『太陽の園』でさ。死んだお母さんはベットの上にいるし、生まれた赤ちゃんは宿直室にいるよ」

 相馬美紀はしばらく考えていたが、何かひらめいたように急に口を開いた。
「ね、ところで、その赤ちゃんはどうなるのかな」
「どういうこと」
「だからさ、その赤ちゃんの引き取り手はどうなるのかな」
「さあ、分からないよ。だって、今日の話だもの。これから調べるんじゃない」
「お母さんは死んじゃいました。生まれた子供は、誰も引き取り手がありません」
「今日のところはそうだったね」
「オヤジとかが現れるかな」
「どうなるか、私には分からないよ」
「どうやって身寄りを調べるんだろう」
「警察もいるからさ、いろいろと調べる方法はあるんじゃない」
「でもその女の人、誰だか分からないんでしょ。殺人事件じゃないからね…。最後まで分からなかったら、どうなるのかな」
「本人が死んじゃったから、もう聞けないね」
「その赤ちゃんは、どこへ行くの」
「どこかの施設? 孤児院かなぁ」
「そうだろう。ところでね、孤児院へ行くんなら、ウチにきても同じだと思わない」
「えっ!」
「ウチで貰わない、その赤ちゃん。もし、どこにも行くところがなくてさ、孤児院へ行くようなら」
「ミキ」
「だって、孤児院でしょ。ウチだって同じじゃない。女が二人いるんだから、孤児院より良いと思うんだけど」
「…」

「6ヶ月たっても、誰も現れなかったら、拾った人のものになるのかな。その赤ちゃん」
「赤ちゃんは人間だよ、そんなことはないだろう」
「拾った人が、権利を放棄したらどうなるんだろう。6ヶ月のあいだ、誰が面倒を見ているんだろう」
「ミキ、物じゃないんだってば、赤ちゃんだよ。人間の子供」
「本当にどうなるのかな、誰も名乗りでなかったら」
相馬美紀は赤ん坊を引き取るつもりである。すっかりその気になっている。
山本恵子はしばらく考えていた。そして言った。
「たしかに施設に行くんなら、ウチにきても同じだね」
「そうでしょ。うら若き乙女が、2人もいるんだよ。ウチには」
「そう。孤児院に行ったって、いずれはどこかに貰われて行くんだよね」
「それなら、生まてすぐ貰ったほうが、絶対に良いでしょう。ねえヤマ、そう思わない」
「うん、そう思う」
「ウチには逞しい稼ぎ手が、2人もいるんだから、とても幸せに育つよ」
と相馬美紀が言ったが、山本恵子はまだ不安そうだった。
「だけどミキ、私達は昼間いないじゃない。その間どうするの」
「それは託児所よ。託児所は働く母親の味方でしょ」
「うん、でもさ、託児所に預けちゃっていいのかな」
と山本恵子。
「なぜ? ヤマが月火と休みでしょ。それに私が土日と休みだから、残るは水木金の3日だよ」
「うん、そうだけど。貰った子供を託児所へはね」
「貰った子供って思うからいけないんだよ。自分の子供だと思えば、大丈夫だってば」
相馬美紀は力説する。
「産んだ子だって、貰った子だって、子供に違いはないでしょ。子供は同じ。貰った子供でも、託児所に預けなければ、私たちが働けないもの」
「でも、良い託児所があるかな」
「大丈夫。もし駄目なら、ベビー・シッターとか家政婦さんを頼もう」
「育児のアウト・ソーシングだ。家政婦さん、それ良いかも」
「家政婦さんは高いかも知れないけど、私達は2人で稼いでいるでしょ。お金なら何とかなるわ。しかも永久にってわけじゃないからね。最初の1年か2年でしょ」
「お金のことは心配ないよ。週3日だけ頼むんなら」
「そうでしょ。だから、子供だって育てられるって」
「それに、子供が小さなうちは、仕事も早めに切り上げてさ」
山本恵子は急に元気になった。
「私のところは、フレックス・タイムだから、子供中心にやれば出来るよ」
と相馬美紀。
「共稼ぎの家じゃ、どこでも託児所を使っているんだからね」
「そう、私達が家政婦さんを使っちゃいけないなんてことはないでしょ」
「ミキ、明日さ、赤ちゃんを見に『太陽の園』に行ってみない。」
「よし、行ってみよう。ところで、赤ちゃんは男、女?」
「男よ。立派だったわ」
二人は、いつまでも話し込んでいた。


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