6.サパの蝶々夫人
サパに来たが、今後の予定ははっきりしていなかった。
中国行きが駄目になったので、仕方なしにサパへ来た、そんな感じだったのである。
地図を見ると、ここからはデイエン・ビエン・フーが近いようだ。
この旅行もあと1週間あるから、デイエン・ビエン・フーを経由してハノイに戻ろうと決めた。
この計画を実行するために、街に出て情報を集めてこなければならない。
さっきバスを降りた大通りを下って行くと、旅行代理店があった。
デイエン・ビエン・フーまでのバスがないかと聞くと、直通バスはないが、デイエン・ビエン・フー経由ハノイ行きのツアーがあるらしい。
3泊4日かけてミニバスで行くのだという。
4人まで245ドルで、それにはガソリン代から、運転手などの費用の一切が含まれており、こちらの宿泊代や食事代は別だとのこと。
魅力的なツアーだが、245ドルは高い。
4人まで同じ値段だから、仲間がいて人数で割れば安くなる。
4人なら、60ドルちょっとである。そこまで聞いて旅行代理店を出た。
さあ、このツアーに乗ってくれる人を捜そう。
そう思って、行き交う旅行者たちに声をかけてみた。
昼食の時には、白人たちが集まっているレストランにいって、声をかけてみたりもした。
しかし、なかなか芳しい答えは返ってこなかった。
若い人の多くは、金額が高いという。
バック・パッカーという貧乏旅行者にとって、3泊4日の交通費に60ドルもかけることはできないのだ。
そうだろう。
彼等の予算が1日10ドルを目安とすれば、食費も宿代も含まずに、60ドルが高いのは理解できる。
しかも、このコースは路線バスを乗り継いで行くことは可能なのである。
ただ、路線バスは1日に1本、もしくは2日に1本しか走っていない。
時間に余裕のある人なら、路線バスを乗り継いでいくだろう。
しかし、ふんだんに時間をもっている彼等と違って、僕のような社会人バック・パッカーは、帰りの飛行機を乗り過ごすわけにはいかないのだ。
だから、ここでの路線バスの旅には一抹の不安がある。
他の旅行者はすでに旅行の行程は決めてあり、簡単に変更することはない。
サパが有名な観光地なのであって、ディエン・ビェン・フーまでの途中には見るべき所はあまりないとすれば、同行者がでないのも当然である。
仕方なしに、また外にでて歩き始める。
サパが観光地であるとはすでに言ったが、アジアのこうした観光地では、西洋人たちが集まる店というのが必ずある。
しかも多くの場合、そうした店は安く美味いことが多い。
安くて美味い食堂の情報に限らず、西洋のバックパッカーたちは、実に良く情報を知っている。
このサパでも、たくさん食堂がありながら、西洋人たちが集まるのは、2〜3軒である。
もちろん、そこは美味くて安い。
西洋人たちの口コミで伝わるのだろうが、彼等の情報の早さにはいつも感心する。
西洋人と一口に言うが、彼等はすべて同じ言葉を喋るのではない。
北欧から始まって、イタリアまで、西洋には様々な文化があり言葉があるはずである。
西洋人と言っても決して一色ではない。
そうでありながら彼等は拙い英語を共通語として話しながら、アジアでもどこでも彼等の社会を作る。
その社会は非西洋人を、拒否しているのではない。
近づけばそれなりに受け入れてくれる。
非西洋人たちが、外国に出ていないことも大きな理由だろう。
日本人や韓国人が海外旅行をするようになったと言っても、その多くは団体旅行である。
個人がふらりと外国の街に出ることは、まだまだ稀である。
だから、そうした西洋人のなかに日本人やアジア人を見かけないのかも知れない。
また、言葉の問題かもしれない。
しかし、英語を母国語としない西洋人たちの英語は拙いことが多く、決して充分な意志の疎通が出来ているとは思えない。
にもかかわらず、彼等は群れるのである。
日本にも外人社会はある。
何故だろうかといつも思う。
西洋近代の創り上げた文化は、それほど独特のなだろうか。
「同行者を捜しているのだが…」
と、街を歩きながら、何人かの西洋人に同行しないかと聞いた。
そのうちの一人、単独旅行者だとばかり思って声をかけた男は、何故か妙に口ごもっている。
結局、予定があるのでと言って、断ってきたのだが、別れたその後ろ姿にはベトナム女性が寄り添っている。
その時は何とも思わなかったが、気をつけてあたりを見ると、西洋人男性とベトナム人女性という不思議なカップルが何組かいる。
ベトナム女性が職業ガイドとして付いている感じではない。
ベトナム人を恋人や奥さんにする西洋人だろうか。
わが国でも国際結婚は少ない。
それがこのサパには、偶然のうちに国際的なカップルが何組も集まったのだろうか。
多分違うだろう。
これはタイなどで見られるのと、同じ現象であろう。
現地の女性を、ベトナム旅行の伴侶に仕立てた、即席のカップルであろう。
つまり、サイゴンあたりで一緒になった夜のお姉さんと、西洋人のカップルだと思う。
こうしたカップルを見るたびに、彼我の違いに思いがとんでしまう。
圧倒的な経済格差の上に胡座をかく西洋人たちを、決して認めるわけではない。
アジアにおける幼児売春の最大の顧客は西洋人男性である。
だから、西洋人たちの行動を肯定するつもりはない。
しかし正直な話し、彼等の余裕を羨ましく感じるのも事実である。
日本人だって、西洋人と同じくらいのお金はもっている。
やろうと思えば出来ないことではない。
事実、キーセン・パーティや台湾での、日本人男性たちの乱行は有名である。
そうは言っても、もし日本人男性がサイゴンの女性を連れてサパを歩いたらと考えると、何かが違うのである。
おそらく日本人のそれはスケベオヤジの好色旅行となって、とても観光などできた話ではないだろう。
やっていることは同じでありながら、西洋人の余裕は一体どこから来るのだろう。
西洋人女性はアフリカの黒人男性を同じように扱うから、これは男性の下半身の問題ではなく、近代文明とそれを受け入れる時の問題だろう。
個人でガイドを雇う。
見知らぬ土地での旅行には、良くある話である。
そのガイドが旅の案内だけでなく、個人的に親密な関係になりながら、何日かの旅行を続ける。
もちろん、通常のガイド以上の料金を払っているには違いない。
アジアでのこうしたカップルは、不思議なことに必ずしも険悪な雰囲気ではない。
もちろん女性のほうが営業用の対応をしている。
それもあるだろう。
しかし、旅が終われば別れてしまうことが判っていながら、西洋人男性と疑似恋愛を楽しんでいるようにさえ見える。
多分これこそ、優位の文化と劣位の文化がもたらす、精神的な陰影だろう。
金のある方が金にあかせて、強引に収奪するだけなのではない。
収奪される方にも、それを受け入れてしまう状況が出来るのだ。
一夜の相手をさせる買春が、否定されることはもちろんである。
しかし、幾ばくかの手当を払ってある期間にわたって行動をともにすると、たとえそこには金銭の授受があって、もなにがしかの感情の変化が生まれてくる。
アジアの女性たちは、とても優しい。
ベトナムの女性たちは、タイの女性ほどではないにしても、金銭を超えた人の良さや優しさを持っている。
それは、日本を含めた先進国の人間が、失ってしまったものだ。
前近代つまり農耕社会に生きるとは、人間を優しいままでおくのだろう。
その優しさに先進国の男性たちは、心をとろけさせるのだ。
蝶々夫人の話もあるとおり、最初は売買春の関係から始まったとしても、男女が一緒にいれば愛情がわいてくる。
文明の落差と言ってしまえばそれまでだが、個人的な人間関係はそれだけでは割り切れないものがあるように感じる。
売春婦との関係がそのまま結婚まで行けば、その男女関係は肯定されるのだろうか。
そんなことはないだろう。
結婚しても彼女が生活力を持たず、男性に養われているままだと、相変わらず売買春関係にあることは変わらないように思う。
むしろ、結婚する前の方が、女性に自由があったのではないだろうか。
人間の関係が、どんな状況から始まるかは予測できない。
日本の中にいると、固定的な男女関係しか目に入ってこないから、売買春を否定するついでに売春婦を無前提的に否定しがちである。
しかし、彼女たちの個的な心的状況に入ってみると、西洋人男性との疑似恋愛を、無前提的に否定できないように感じるのである。
経済的な貧困や男性の乱行に問題を換言するのは易しいが、そんな教条的な思考で人間が理解できるだろうか。
ベトナム人女性と西洋人男性のカップルを見ながら、何だか不思議な感興におそわれた。
市場に戻って、遅い昼食をする。モン人たちが座っている隣に座る。
モン人たちにちょっと笑顔。
彼等の食べているのは、例のうどんである。
うどんをおかずにご飯を食べている人もいる。
僕はご飯を貰う。
そこに並んでいるお皿から、おかずを指さす。
鶏肉と青野菜の炒め物、それに豆腐。
豆腐はここベトナムでは、どこでもよく食べる。
日本の豆腐よりちょっと硬いが、まったく同じものである。
揚げたり、煮たりと、食べ方もいろいろあるらしい。
前に座っているモン人たちは、僕に興味があるのがわかる。
僕は白人でもないし、ベトナム人でもない。
早速、質問がとんで来る。
「どこからきた?」
と言っているのだろうと、想像する。
「ニャット」
ベトナム語で日本と答える。それで一同は納得した。
その後も何かいろいろと話しかけてくるが、まったく判らない。
すると、一人の男性がにやっと笑って、僕にお猪口を差し出す。
何だろうと思って飲んでみると、お酒だった。
ジョという名前で、お米から作るワインだと言うこと。
日本酒と違って、ほんのりと甘い中にもさっぱりした味で、たちまち気に入った。
すかさず2杯目が注がれる。
気がつくと彼等の顔は、お酒で赤くなっている。
いくらでも注がれそうなので、3杯目を飲んだところで強引に断る。
でもにやにや笑っているだけで、怒りはしない。
ご飯が来る。
太い竹の箸で、一口。
おかずの味が濃い。
何と言っているのかまったく判らないが、廻りの人たちは僕の話をしているのだろう。
僕のほうを見ながら、大きな声で話して、さかんに笑っている。
一般に白人観光客たちは現地の人たちと交じって、こうした場所では食べないから、僕のような外国人観光客は珍しいらしい。
自分たちの隣に座って、同じものを食べる変な外人と言っているのかも知れない。
白人の文明と、僕を含めたアジア人。
そんなことを考えながら宿に帰ってきた。
ここにはもう一晩泊まるだろうから、洗濯物を頼む。
ちなみに、僕の持っている着替えは3組である。
1組は帰りの飛行機にのるためにとっておくと、この旅行中に着ることが出来るのは2組である。
約10日の旅行を今着ているのを含めて、3組で切り回すためには、どこかで洗濯をしなくては、衣類が足りなくなるのは目に見えている。
それほど暑くないので、汗もかかない。
衣類に関しては、今回は順調である。
陽も傾きかけてきた。
宿のテラスで、ちょっと日光浴をしながら、本でも読むことにする。
南に面した二階には、狭いながらもテラスがある。
そこにはテーブルが3つと、それに椅子が5〜6脚ほど置かれている。
誰もいないテラスに、僕は上半身だけ裸になって、足をテーブルの上に上げた怠惰な姿勢で本を読み始めた。
サパは高地だから日射しが強く、本を読むにはサングラスが必携である。
どの位たっただろうか、あたりの風が冷たく感じられてきた。
Tシャツを着る。
のんびりとした空気が流れている。
旅行中にこうした時間がもているのは幸運である。
本を読んでいるうちに、いつの間にかウトウトしてしまった。
部屋に入ってシャワーを浴びる。
細いながらお湯がでるというのは、本当に嬉しいものだ。
冷えたからだが生き返るようである。
そう思いながらシャワーを浴びていると、何だかお腹の皮が熱い。
日焼けした。
しかし、しかし、である。
足をテーブルの上に上げていたので、お腹の皮が重なっていたのだろう。
何と日焼けがまだらになってしまった。
陽にさらしていた部分は赤く焼けているが、皮膚がくっついていたところは焼けないで白いままである。
まるで、シマウマのようになってしまった。
何とシュールなお腹だろう。
自分でもあきれてしまった。
|
|
|
食堂の前でゲームに興じる人たち |
ソン・ハー・ゲスト・ハウスには食堂はない。
夕食は外に行くのである。
階下に降りていくと、さっきこの宿を紹介してくれた日本人男性に出会った。
1人旅のつらさは、夕食である。
廻りの人たちは、仲間たちと楽しそうに食べいる。
その中で1人食べる寂しさは、味気のない思いを倍増させてくれる。
どちらともなく、
「食事に行きませんか」
と言うことになった。
市場の近くのカメリアというレストランへ行く。
ここは、外国人観光客のたまり場で、英語が通じるし、美味いので評判である。
彼は、Mといって自己紹介をした。
大阪から来たのだそうで、当年30歳の営業マンとのことだった。
外国旅行にはずいぶんと慣れているらしく、素早く情報収集をしていた。
このサパに関してもいろいろと情報を教えてくれた。
ハノイ・ビールで乾杯。
瓶入りのハノイ・ビールは、10、000ドンと高いが、ちょうどよく冷えており美味い。
2人で3品ほど注文する。食事は連れがいると美味い。
彼をディエン・ビエン・フー行きに誘うが、残念ながら断られてしまう。
「ハノイの近くで行きたいところがあるんですよ。ディエン・ビンエ・フーまで行く時間はないんです」
社会人旅行者は、いずれも時間に縛られている。
ワーカ・ホリックな日本人は、西洋人のように長い休みが取れない。
わずかな休暇をやりくりして、外国に出てくるのだ。
「そうですか、それは残念。ところで、明日はどうする予定ですか」
「ラオチャイに行こうと思うんですよ」
「どんなところです?」
「少数民族の住んでいる村で、ここからバイク・タクシーで60、000ドンって言っていましたよ」
「そうですか、僕も行こうかな」
「行きましょうよ」
そんなことを話しながら、ビールを飲み、お米のワイン、ジョを飲んで、サパの夜はふけていった。
|