団塊男、ベトナムを行く    ハノイの北は  
1999.6.記
1.ハノイ到着 2.ハノイの旧市街 3.ハノイの街並み 4.ハノイ郊外
5.サパへ .サパの蝶々夫人 7.ラオチャイとカットカット .ソンラーへ
9.ランクルの旅へ 10.ディエン・ビエン・フーへ 11.マイチャウから 12.チュア・タイ寺院
13.観光地ビック・ドン 14.ホテル:メトロ・ポール 15.さようなら

 

12.チュア・タイ寺院へ

 翌朝は、7時起床。
1人用の白い蚊帳は快適だった。
竹の簀の子が床という上に、薄い布団を敷いて寝たのだが、なかなか気持ちがいい。
竹の簀の子が畳と同じように、クッションの役割果たしているので、弾力性がある。
しかも、安宿のベッドのように、腰が沈むと言うことがない。
他の人はすでに起きているのか判らない。
1人でごそごそやるのは、迷惑かなと考えらなが、蚊帳から出るのがためらわれる。

 人の動く気配がするので、僕も蚊帳から抜け出した。
外に出てみる。
朝の空気が思い。
子供たちが学校へ行くのか、何人か歩いている。
水田の水が細い畦のあいだを、ゆっくりと動いている。
農家の人が水の見回りに来ている。
アヒルが遊んでいるし、鶏がいて、小さな豚が走っている。
かつての日本の農村と、まったく同じである。
ベトナムの北は文明の波が押し寄せていはいるが、いまだに農村が完璧な形で生きており、何だか懐かしい雰囲気が至るところにある。

 宿に戻ると、パジャマ姿の若奥さんが蚊帳を畳んでいた。
彼女はベトナム女性の例にもれず、1日中パジャマ姿である。
蚊帳のたたまれた後へ、夕べと同じようにテーブルがだされる。
しかし、朝ごはんは揃って食べないで、用のある人から次々と食べる。
フランス・パンとコーヒー、それに卵焼きが出た。

 このコーヒーはインスタントだが、甘くベトナムで飲む独特の味である。
20センチくらいの長いフランスパンは、街でも売っているのと同じ形で、街で売られるフランス・パンと同様に少し柔らかい。
宿のご主人とツアンさんは、パンを切腹させて、その間に卵を挟んでサンドイッチにして食べている。
2人が相談するでもなく、同時にこの作業を始めたところを見ると、卵サンドのこの食べ方が今風なのかも知れない。

 8時出発。
霧の出始めた山道を、ランクルは走る。
国道からそれたので、道は悪い。
また時速20キロになってしまった。
時々対向車とすれ違う。
路線バスも走っているようだ。
いくつか小さな街を通りすぎ、大きなT字路で車は止まった。
ツアンさんはここだという仕草をして車から降り、バイクタクシーをつかまえる。
チュア・タイ寺院への往復を交渉してくれる。
100、000ドンで交渉成立。
3泊4日にわたって一緒だったツアンさんとも、握手とともにお別れである。

 バイク・タクシーの後ろに座るが、舗装道路なのでお尻が痛いと言うことはない。
しかし、荷物を背負っているのだ。
これが長くなると辛そう。
地図で見たときは、T字路からチュア・タイ寺院までは近そうに見えたが、なかなか着かない。
広い道は同じように何時までも続くが、少し不安になってきた。

 そのうちぬかるんだ細い道に入った。
そこを抜けると、今度は川沿いに土手のうえを走る。
田圃の向こうには、野辺送りだろうか葬式の列が見える。
くねくねと道は曲がり、村を抜け、また曲がり、やっと着いたのはタイ・フォン寺である。
バイク・タクシーの運転手は、ここだと指さしてバイクを止め、自分はあたりの人と話を始める。

 階段のしたで入場券を買う。
1メートル巾くらいの狭くて、長い階段がずっと続く。
上はどうなっているか、ここからでは判らない。
きれいに掃除され、手入れのされた境内地である。
階段はゆるく右に曲がり、もう下が見えなくなった。
途中に一軒の土産物屋さんがある。
10分くらい登っただろうか、山門が見えてきた。
山門の手前には、目の見えない老女が座っている。ほんの少しだが、5、000ドンばかり喜捨させてもらう。

 山門をくぐると、そこはまったくお寺だった。
あたかも京都かどこかの名刹といった感じのお寺である。
お線香の香りも漂い、小柄なベトナム人の老女たちがゆっくりと動いていた。
社会主義国家でありながら、仏教を維持しているのは不思議である。
社会主義では、宗教は阿片のはずだから、仏教などまず最初に駆逐されたと思っていたが、ここは11世紀からお寺として活動してきたという。
老女たちが11世紀からと言う口調が、実に誇らしげなのである。

 今は20世紀だから、900年にわたってこのお寺は維持されてきたのだ。
生きては死んでいく多くの人々が、この小さなお寺を維持しようと思い続けたからこそ、900年の長きわたって存続してきた。
900年のあいだには、様々なことがあっただろう。
1メートル50センチにも満たないだろう老女たちの先祖が、このお寺を維持してきたのだ。
何だか、言葉がなくなってしまった。

 聞けば、社会主義の時代でも、このお寺は宗教としてではなく、アミニズムの拠点として生きながらえたのだそうだ。
宗教といった言葉で、僕たちは信じる心をひとまとめにして扱うが、どんなレッテルを貼られても、それを信じている人たちには、まったくどうでも良いことである。

 とにかく自分と神様や仏様がいるだけなのであって、他の人の思惑など関係ない。
自分が神様や仏様とどんな関係を結ぶか、ただそれだけが当人の関心である。
そして、その時代のお金のある者から、お金をださせてお寺を維持し、自分の信じる場を作る。
それが信じるということなのだ。
この老女たちのゆったりした顔、思わず頭が下がってしまう。

 本堂の裏では、食事の準備だろうか、1人の老女がかまどに向かっていた。
それは暗い部屋で、かまどの火だけが明るく見えるのだが、彼女はいつもの仕事らしく何事もなげに動いていた。
僕が声をかけると、振り向いた彼女はにっこりと笑った。
写真を撮らせてくれというと、そんなことは出来ないというように自然な顔で断ってきた。
恥ずかしいというのでもない。
ただ自然な断りである。
僕はそれ以上ことばがなく、構えたカメラを黙って下においた。

寺守の女性たち

 本堂は拝殿と奥の院の二棟からなり、二つの建物のあいだには小さな中庭がある。
本堂の中にはいると、お線香の香りが充満し、いかにも祈りの空間といった雰囲気が漂っている。
ハノイから少し離れており、不便なためか日本人観光客はいない。
訪れる観光客もいまだ少なく、2・3人の西洋人が静かに本尊さまを見ていただけだった。
ここにも仏に従うベトナム人の老女がいるが、彼女たちは一様に小柄である。
笑顔をかわして、写真を撮らせて欲しいと頼むと、今度は気持ちよく応じてくれた。

 バイク・タクシーまで戻ると、今度は大きな池のある寺院に連れて行かれた。
お寺に入る前に食事。
僕がうどんを頼むと、運転手も同じものを頼む。
お金を払う段になったら、ちゃっかりおごらされてしまった。

山頂の寺院
麓の街の道
街の子供:山の子供と比べて欲しい

 このお寺も良く保存されており、狭い中にも密度の高い寺院空間を作っている。
きつく反り上がった屋根の角が、空を鋭く区切り、建物の内部をより緊張感の高いものにしている。
仏像の並んだ廊下状の建物や、竹に囲まれた本堂の中を歩きながら、歴史に耐えることの難しさを考えていた。
ここは小さなお寺ながら、後ろに山が控えており、その頂上にはまた別の社があった。

 山の上からは、この街が一望に見渡せる。
それほど大きくないので、歩いてみることにした。
煉瓦混じりの塀で両側を囲まれた1メートルくらいの狭い道が、迷路のように入り組んだ街は、何の規則性もなく角を曲がるたびに次々と新たな家を見せる。
煉瓦混じりの塀は、巾3メートルくらいの開口部を持ち、いずれも頑丈そうな木の二枚扉がはめ込まれている。
しかし、その扉はほとんどが開け放たれており、塀の向こうに家が見えるのである。
塀に囲まれた中庭には、牛やオートバイが見え、洗濯物が干されたりして、生活している様子が伝わってくる。

 近所で遊んでいる子供たちが、外国人の僕を見つけて、駆け寄ってくる。
「ハロー」
と口々に言う子供たちは、どこでもあどけなく可愛いものだ。
山間部の子供たちと異なり、栄養状態が良いらしく、青鼻を垂らした子供は見あたらない。
身なりも清潔で、近代化が浸透し始めていることが判る。

 今度は何処へ行くのかと、期待といささかの不安をともに、僕は再びオートバイに乗る。
しかし、今度はなかなか停まらない。
道は徐々に広くなり、1時間も走り続けている。
まわりはすでに都会の様子を呈しており、明らかにハノイに向かっているようだ。
ツアンさんと別れたところへ戻るのではなく、どうやらハノイまで送るようにツアンさんから言われたらしい。
市内に入ってから彼はバイクを止め、行き先を聞いてきた。
僕は、
「シン・カフェ」
と言った。
彼は簡単にうなずくと、オートバイを走らせ続けた。

 やがて着いたところは、あるホテルの前なのだが、ここが彼の言うシン・カフェである。
僕の言うシン・カフェではない。
地図を広げて、彼に説明する。
しかし、ハノイから3時間も離れた町から来た彼は、ハノイの街を良く知らないらしい。
字が読めないのかも知れない。
地図をちらっとは眺めるのだが、どうも良く判らないようなのだ。

 ここがハノイの市内であることは確からしいので、近所の人に聞いてみる。
幸い英語が分かる。
オートバイの彼に説明してもらう。
彼は了解して、また走り出す。
何度か聞きながら走っていると、見知った景色が見えてきた。
交差点を左に曲がるように指示するが、これが間違いだった。
また来た道を戻る。
しばらく走ると、今度は本当に知ったところに来たので、降りることにする。

 5時間近く運転手とオートバイを拘束して、100、000ドンである。
これが高いのか安いのかわからないが、彼は長く走ったから、もっと金をくれと言った顔をした。
にやっと笑っただけで、僕は首を横に振った。
彼は簡単に諦めて、それ以上しつこく要求しなかった。
手を振って彼と別れる。

 僕がオートバイを降りた場所は、官公庁や外国大使館などの多く建っている場所で、チャンフンダオ通りからホアンキエム湖へと続いている。
ここまで来ればもう良く知っているので、1人で歩くことができる。
まず近くの生ビールやさんに腰を下ろす。
1、500ドンで、ビア・ハノイをたのむ。
どこの生ビールやさんでも、泡の入った緑の吹きガラスのようなコップでだされる。
アルコール分の少ない生ビールだが、オートバイで風に吹かれてきたので実に上手い。

 ホアンキエム湖の西側を、旧市街へと向かう。
すでに暗くなってきた。
湖畔では、男たちがあちらに4・5人、こちらに2・3人と将棋盤を取り囲んでいる。
人気のあるところは、中の将棋盤が見えないくらいの岡目八目である。
その中で詰め将棋をやっている男を見つけた。
もちろん、お金を掛けているのだが、彼が作った盤面から、いかにして詰ませるか。
詰めば男の負け。詰ませることが出来なければ、お客の負けである。
まだ客はいなかったが、聞けば、1勝負5、000ドンだという。

 写真を撮らせてくれと頼むと、完璧に拒否。
僕はずいぶんと盤上遊戯を追いかけてきたが、中国将棋で街灯詰め将棋をやっているのは初めてである。
これはどうしても写真に撮りたい。しつこく頼む。
金を払うことも覚悟した。
しばらくすると5、000ドンで、写真撮影に応じるという。
喜んで5、000ドン払う。感激の写真撮影だった。
あたりでは他にも将棋をやっている人たちはたくさんいるが、詰め将棋を商売にしているのはこの男だけだった。

 ハノイをでて1週間。
これでハノイの北から帰ってきたのだ。
明日は、メトロポールに泊まるが、今夜はどこかの安宿を探さなければならない。
旧市街へと向かう。最初に泊まったホテルの近くまで来た。
今度は違うホテルである。
10ドル。
8ドル。
ここまで簡単に落ちるが、それ以上安いホテルがなかなかない。
けっきょく7ドルのホテルで妥協。
改めてサパのソン・ハー・ゲスト・ハウスが安かったことを思いだす。
45、000ドン、3ドル26セントだったのである。

 ハノイにいるのも、明日の1日だけになってしまった。
明日はシン・カフェのツアーで、ハノイの南にあるビッグ・ドンへ行こう。
夕食をしながら、ツアーの予約をしにシン・カフェに行く。
14米ドル。
明朝7時に、ホテルに迎えに来るという。
その帰り道、インターネット・カフェによって、日本へメールを送る。
便利になったものだ!

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