団塊男、ベトナムを行く    ハノイの北は  
1999.6.記
1.ハノイ到着 2.ハノイの旧市街 3.ハノイの街並み 4.ハノイ郊外
5.サパへ .サパの蝶々夫人 7.ラオチャイとカットカット .ソンラーへ
9.ランクルの旅へ 10.ディエン・ビエン・フーへ 11.マイチャウから 12.チュア・タイ寺院
13.観光地ビック・ドン 14.ホテル:メトロ・ポール 15.さようなら

   

7.ライチャイ村とカットカット村

 翌朝、8時に起床。ゆっくりとシャワーを浴びて、外へでる。
夕べの食堂まで歩く。
そこで、コーヒーを飲む。
ねっとりと濃くて甘いベトナムのコーヒー。
もうそれだけで朝食はいらない。フランス・パンやコーヒーは、フランスの置き土産である。
コーヒーはどこで飲んでも、3、000ドンだった。

 土産物を買えと、モン人の子供が食堂の前にたっている。
中の客が呼び入れない限り、彼等は食堂の中に入れて貰えない。
窓ガラスに顔をぺたりとつけて、こちらの様子をのぞいている。
いくつもの目玉で監視される中での食事には、もうだいぶ慣れた。
とは言っても、まったく無視してしまうまでには至ってはいない。
意識に上がらない他者は、存在しないと言うわけではないのだ。

 Mさんと会う。
宿には、すでにバイクタクシーが来ている。
MINSKというロシアのバイク。
その荷台にまたがる。
僕の乗ったバイクが先に出発したが、あとからMさんの乗ったバイクに抜かれた。
ラオカイへの道を引き返し、途中から左に折れて、山の中へと入っていった。

 狭いながらも、何とか舗装されている。
しかし、所々未舗装の部分があり、お尻を浮かせて通過する。
あたりは田圃らしく、耕作されているが、いまだ稲は植えられていない。
ところどころに水を張った田圃が見える。
30分くらい走っただろうか、峠の上に検問所がある。ここで6、000ドンの入村料をとられる。

 バイクはなおも進み、赤土の露出した箇所にさしかかる。
僕は降りてバイクの後ろから歩く。
5分と歩かないうちに、谷間の開けた場所に建物が見えてきた。
赤地に1ツ星が着いたベトナムの国旗が上がっている。
学校だろうか。
まわりはすべて田圃で、苗が植えられたのあり、水が張られたのあり、土起こしの最中ありと、様々な段階が混在している。
広い田圃のところどころで、人が働いているのが見える。
ここがラオチャイ村の中心らしい。

 小川を渡って広場にはいる。
そこには納屋のような建物が建っており、中でモン人の女性が刺繍をしていた。
僕たちが近づくと、そこから一人の女性が飛び出してきて、いつとはなしに山の方へ歩き出した。
彼女はモン人の服装で、竹で出来た背負い篭を背負っている。
軽い足取り進む彼女の後ろに僕たちはついていく。
ベトナム語が話せない僕たちは、黙っている。

山の中の民家


どこへ連れて行かれるのか判らないが、彼女は僕たちを山の中へと案内していく。
おそらく、これがモン人の部落へのおきまりのコースなのだろう。
道は登りになってきた。
人がすれ違えるほどの幅員しかない。
赤土の地面は、夕べの雨でぬかるんでいる。
足下に気をつけながら、先を行く女性を追う。
山が深くなり、道は茅葺きの家が見える。
床下には鶏やら猪のような野豚が遊んでいる。
今は誰もいないようだが、洗濯物が干してあり、人が住んでいることが判る。

 しばらく歩くとまた家がある。
その家から子供が顔を出して手を振る。
10メートル四方くらいの池を回り込み、道は急な登りになる。
しかし、彼女は同じ調子で進んでいく。
後ろから行く僕たちは遅れがちだが、何とかついていく。
分かれ道にでた。女の子がこちらを見ている。
男の子が僕たちと一緒に歩き出した。

 山道の両側に、茅葺きや板葺きの家が何軒かある。
それらの家には電気は通っているらしい。
細い電線が竹藪をくぐって通じている。
山の上のほうから、竹を半割にした樋が連なっている。
太い根から細い先の方へと水は流れ、また太い根の方へと受け継がれて、水はゆっくりと流れている。
支柱に藤蔓で縛られて、空中に固定された樋の中を水が流れ、各々の家へと入り込んでいる。
設置されてからすでに時間がたっているらしく、竹製の樋には苔が生えている。

 順調に流れている水が、樋の繋ぎ目から少しばかりこぼれている。

竹を割った樋が、家まで水を運ぶ


何度も何度も竹の樋を渡るうちに、水は少しずつ減っていくのだろう。
藤蔓で固定した原始的な樋では、水源から引いた水が、家にたどり着く前に地面に戻ってしまうのでは、と心配になる。
しかし、それでも水汲みに行くことを考えれば、便利な装置なのだろう。
僕のとなりに立っていた男の子が、僕の目の前の樋に手を伸ばすと、樋を半回転させた。
するとこぼれていた水は、無事に次の樋に移るようになった。

 先頭を歩いていた女性が、一軒家に足を止めた。
どうやらこの家は彼女の住まいらしい。
彼女は慣れた手つきで木製の錠前を開け、僕たちを中に呼び入れる。
中は真っ暗で、屋根の方から一条の光が落ちている。
床は張ってなく土間のまま。
銭湯で座るような10センチくらいの低い椅子をだして座れと言う。
何を始めるのかと見ていると、背中に背負った篭から土産物を取り出して、買えと商売を始めたのである。
それは丁寧にお断りして、家の中を見せて貰う。

 一部が二階建てになった内部は、今は住んでないような感じである。
入り口とは反対側にある竈はすすで真っ黒なのだが、最近火が入った形跡はない。
大きな鍋がかけたままになっており、中には濁った水が入っている。
食器類もあたりには見あたらない。
裸電球が一つぶら下がってはいるが、ここは観光客を案内したときだけ見せる、観光物産店かも知れない。
外にでてみると、裏には大型動物が入る家畜小屋がある。
しかし、ここにも家畜はいなかった。

 僕たちを案内してくれた女性は、何も買わないと判ると、さっさと山を下っていった。
僕たちはもっと上の方へと、道を登り始めた。
男の子がついてくる。
彼の背負っている鞄を見ると、ユニセフのマークが入っている。
同じような景色が続いており、道はくねくねと曲がりますますぬかるんできた。

 どの家も人がいない。
夜になったら帰ってくるのだろうか。
霧がでてきたが、気温は高い。
山道を歩くと汗がでてくる。
ちょっとした広場のようなところにでた。
ここで引き返すことにする。
下り道は大変だ。
滑らないように慎重に足を出す。
後ろから子供がいかにも軽い足取りで、僕たちを追い抜いていく。

 学校の見えるところまで戻ってきた。
行くときには気がつかなかったが、小川の流れに小さな小屋がかかっている。
屋根だけの小さな建物を不思議に思って近づくと、その下では丸太が時折どすんと落ちる。
よく見るとそれは水力式の臼だった。筧の原理である。

 丸太の先端がくりぬいてあり、そこに水がたまると、水の重みで丸太が持ち上がる。
水がこぼれてしまうと、丸太は自重で落ちるのだ。
その時、下の臼に入っている穀物を製粉する仕掛けである。
水車を廻すほどの水量のない小川での、製粉装置に感心しながら、しばらく見つめている。
先人たちの生きるための工夫の跡を見ると、頭が下がる。

 昼御飯を食べていたバイク・タクシーの運転手を待っている。
そこで僕たちもお茶をごちそうになる。
日本のお茶と同じ味だが、小さななお猪口のような湯飲み茶碗で飲む。
急須の中には、お茶の葉っぱが入っているのはもちろんだが、その葉っぱは日本のように細かく刻んではない。
それでもずいぶんと濃い味である。

 サパに戻って、市場で食事。
30、000ドンを25、000ドンに値切るが、現地の人たちはもっと安く食べているようである。
一体どのあたりが相場なのか、皆目見当がつかない。
外国人用として二重価格がある。
いくらかぼられるのは仕方ないとしても、基準が判らないと言うのは、雲をつかむような気分である。
値段を言われても、それが妥当なのか判らず、不思議な気分にさせられる。

 これがアラブのように最初から交渉で決まる社会なら、こちらもそのつもりでいくのだが、相場がありながらそれが判らないことが困るのだ。
他の人たちは全員が相場を知っており、僕だけが知らないと言うのは何とも妙な宙ぶらりん状態である。
世界の中では、一物一価の方が少ないとは知っている。
しかし、外国人と地元の人との二重価格というのは、現地の人たちには不便でも何でもないだろうが、外国人には据わりが悪い制度である。

 3時頃から、Mさんとカット・カット村へいく。
まだ陽が高く、暑い。
モン人の住むカット・カット村は、サパの中心から歩いて30分くらいである。
しかし、それがただただ下るだけの道で、眼下に見える渓谷を流れる川沿いの村である。
行きは良いが、帰りが思いやられる。道は山の中腹をくねくねと降りていく。
途中には、モン人の家があり、子供たちが遊んでいる。
へべれけになったモン人の男性が、千鳥足で歩いている。

 カット・カット村を過ぎて、川べりでしばらしく涼んでいると、上品なベトナム婦人と若いベトナム女性が、ガイドの男の子を連れて現れた。
二人のベトナム女性たちは、いかにもお金持ちらしく、着ているものや持ち物から立ち振る舞いまでゆったりしている。
今まで街では見なかった種類の人間である。
「どこから来た」
と、きれいな英語で質問を受ける。
「フロム ムーン」
と答えると、中年の女性は
「ユー ケイム フロム アナザー プラネット」
と言って、大笑いだった。

 彼女たちは、サイゴンから来たのだそうで、観光客だと言った。
観光は農耕社会の行動ではない。
農耕社会にも旅行はあるが、それは仕事で移動しているか、農閑期の骨休めでしかない。
ただ見るだけの旅行である観光は、工業社会になり社会が豊かになって初めて生まれるものである。

 戦争に明け暮れたベトナムは、いまだ農耕社会にあって、観光をする人たちが生まれているとは思えなかった。
しかし、彼女たちの話を聞いていると、どうやらベトナム人も観光旅行にでるようになったらしい。
まだ外国には出ることはできないが、ベトナムにも中産階級が誕生し、列車や車を使った観光旅行が普及し始めているという。

 急な坂である帰り道を、彼女たちと並んで登り始めた。
別れ際にどこに泊まっているのかと聞いたら、ヴィクトリア・ホテルだという。
これには考えさせられてしまった。
というのはヴィクトリア・ホテルとは、サパにたった一つある国際ホテルで、一泊82ドルもする。

 僕の泊まっているソン・ハー・ゲスト・ハウスは4ドルだった。
それを45、000ドンに値切っているのである。
いくら外国人との二重価格と言っても、ヴィクトリア・ホテルの82ドルをベトナム人だから10ドルとはならないだろう。
やはりそれなりの料金は取られるはずだ。

 お金のあるはずの外国人旅行者が、4ドルのホテルに泊まり、お金のないはずのベトナム人がヴィクトリア・ホテルに泊まる。
彼女たちは中産階級と言うより上流階級意に近いのだろうが、ベトナムでも観光にお金を使う階層が生まれつつあることは、ベトナムが近代化に入ったことの証であろう。

 わが国のなかでも国民宿舎やユースホステルが流行ったように、やがてベトナムの庶民たちも観光旅行に出かけるようになるだろう。
その時には、今僕たち外国人旅行者が泊まる安宿には、ベトナム人たちも泊まるようになっているに違いない。

 薄暗くなってきたサパの街は、人通りもまばらになってきた。
夕飯を食べにMさんと街にでる。
今日はちょっと歩いて、大通りの下にあるダンチュンというレストラン兼ホテルに行く。
ここのオーナーは英語とフランス語を話し、西洋人たちがたむろするので有名な店である。
二階がレストランになっており、室内だけではなくバルコニーにもテーブルが並んでいる。
僕たちは道に面したテーブルに座る。
食事も半ばと言ったときに、ここのオーナーがツアーの話を持ってきた。

 火曜日には、ソンラーという村に市が立つ。
そこまでジープで行くツアーがあるが、のらないかというのである。
ジープの代金、途中ボートに乗るがその代金、、昼食代など一切を含んで、14ドルである。
すでに2人の参加者があり、あと2人空いているという。
フランス人の中年女性とアイルランド人のやや若い女性が同行者らしい。
このツアーは最近始まったばかりで、まだあまり観光客は入ってないらしいが、サパからソンラーまで3時間かかるという。
まるまる一日のコースである。
Mさんの顔を見ると、すでにOKの様子。
僕も心が動いた。行くことにする。

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