老人、フィリピンに棚田を見にいく

マニラ→バギオ→バナウェイ→サガダ   2017.8−記

目    次
1. マニラ:マカティ−1、−2 ニノイ・アキノ空港へ 巨大建築のマカティ
2. バギオへのバス 7時間のバス旅行
3. バギオにて−1、−2 ランドリーサービスに行く バギオ市内
4. バナウェーへ ハイエースで7時間
5. バナウェーにて−1、−2 棚田、棚田、また棚田 乗合いジープニー
6. サガダへジープニーで ハイエースはキャンセル  
7. サガダからバギオへ 肝を冷やす洞窟探検  
8. バギオへ戻る デラックス・バスで  
9. マニラの休日 親切な人たち  
10. 再びマニラにて−1、−2 マニラ近郊へ マニラ最終日の体験
       
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バナウェーにて−1  
棚田、棚田、また棚田

  このホテル、簡素ながらベッドは寝心地が良かった。木枠に単なるウレタンフォームが乗ってい るだけだけど、腰も沈まずに良かった。アジアでは室内のヤモリには驚かないが、しかし、床を芋虫が這っているのを 発見してしまった。

 
棚田−1
 
棚田−2
 
棚田−3
 
棚田−4
 

  快調な目覚めで、温水のシャワーを浴びる。細い出だが、何とか身体にお湯をかけることはできた。石鹸も使えて、気持ち良い。飛行機の話はダメだそうだ。雨期で気流が安定しないので、欠航しているらしい。隣のレストランへ朝食を食べに行く。フランス人たちがいた。昨日の雨も上がって、朝なのにすでに日差しが厳しい。日焼けしないようにと、お互いに思わず口にする。

 

  今日はトライシクルで近所をまわるので、8時には迎えに来てもらった。 BATAD→BANGA-AN→VIEW POINT とまわって、1400ペソということだ。これが高いかどうか判らないが、ホテルの親切な(?)オヤジの紹介で、しかも彼が立ち会っているので、何も言わずに承諾した。(やっぱり極めつきに高い。観光協会の独占的値段設定らしい)

 

  BATAD への道は途中から工事中で、トライシクルを降りてから20分ほど瓦礫と山道を下る。 かなり急な坂で、しかも足下が悪い。よろけながら岩だらけの坂を下る。この旅で初めて、日本人のカップルにすれ違う。向こうも驚いていたが、こちらも驚いた。下りきる手前で道が二股に分かれ、どちらに行こうか大いに迷う。上の道を選べば、やがて一緒になるだろうと思いながら歩くが、何も見えずに不安になる。鶏の姿がみえたので、人家が近くにあるだろうと安心。

 

 5分も歩くと、目の前に棚田が大きく広がって見える。さすがに見応えがあると思っているが、あたりは棚田だらけである。ずっと棚田ばかり見てくると、ちょっと感激も薄れてしまった。棚田は単なる風景で、動かないのだ。

 戻るとトライシクルの運転手は食事中。そこでさっきの日本人女性に会う。こちらもカップルではなく、マニラでの知り合いだ という。男性はマニラからバイクで北上し、女性は夜行バスで9時間かけてラガウェイまで来て、そこで落ち合った。そして、ラガウェイからバイクに2人乗りで来たという。何と大胆な! 若いというのは羨ましい。

 

  BANGA-AN からバナウェーに戻り、VIEW POINT に向かう。確かに棚田が前面にひろがり、それを作った人間たちの営みに感動する。幅4〜5メートルの段々になった田圃が、急な山の斜面に何百メートルにわたってへばりついている。いったいどれほどの労力が投じられているのだろう。ガイドブックでは二千年前から耕作が続いており、世界遺産に指定されているという。

 

  どこにいっても棚田、棚田、棚田である。先祖の労力の結果を見に、世界中から観光客が来る。タージマハルほどではないが、それこそ先祖の遺産に感謝していることだろう。しかし、トライシクルの運転手が言うには、最近では後継ぎは都会に出てしまい、親戚の人が替わって耕作しているらしい。近代化の波はどこでも同じだ。我が国でも農業従事者の歴史は、まったく同じだった。ここでも棚田を維持できなくなる日が、そう遠くない将来に来るだろう。

 

  それにしても人間という生き物の生命力には呆れるほかはない。急峻な山肌をこつこつと耕して水を引き、他の野菜では考えられないほど、収穫量の多い米を作った。そして、子供をたくさん産み、地上にはびこってきた。別のトライシクルの運転手に、子供は何人いると聞いたら、平然として6人だと答えた。決して豊かでもなく、まだ 30半ばだろうと思える男性がそう言うのだ。6人も産めば、ほんとうにねずみ算である。

 

  なぜこんな所に住み始めたのだろうか、と考えた。それは簡単な理由だろう。おそらく人は外敵の襲来がなく、食料が入手できる所なら、どこでも良かったに違いない。今なら交通の便利な場所とも考えるが、当時の人たちには仕事場=食料をえる場所は、自分の住む近くになければならなかった。仕事は農業以外にはないし、車も電車もないとすれば、どこに住んでも大した違いはない。今や大都会のマニラだって、当時はタダの海岸に過ぎなかっただろうから、都会を指向するなどあり得なかった。

 

  教育も、福祉も、医療も、何もかもすべて自前で処理しなければならなかった時代。都市に住む必要性はなかった。だから食料が得られる場所に住み着くと、子供を産み定住する。子供は労働力だったから、たくさん産んだ。もちろん生まれた子供は、他所へ行きようもないから、生まれた場所で一生を終える。そうした営みが 何百年と続いてきた。住まいと仕事場が分離した時代になって、住む場所が勤務先に便利なようになっただけだ。実に簡単な理由だった。

 

  棚田には大変な高低差があるが、所有者は水平に辿れば自分の田に行けるように、互いに持ち合う田の場所を調整したのだという。高い場所に住む人は高い棚田を、低い場所に住む人は低い棚田をという具合に。道具を担いで歩いて田圃に行き、働くとは何でも自分の身体でやることだった。そうした事実を想像すると、昔の人は大変だったろうなと、改めて思う。

 

  昼食を運転手と一緒に食べてから、1人で博物館にいく。中を覗いても誰もいない。声を掛けると、 若い女性が上から降りてきて、宿帳のようなノートに名前を書いて、50ペソ払えと言って消えてしまった。展示は2階だというので、階段を登っていくと、床の水をチリトリで掬っている。雨漏りの水だと憤慨している。その脇の喫茶店で、ホット・チョコレートを飲む。ノンビリ。

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