団塊男、中国を歩く    雲南地方から広州へ  
2000.12.記
01.川崎から昆明へ 02.昆明の街にて 03.石林往復 04.大理:下関と古城
05.景洪へ飛ぶ 06.景洪からのバス旅行 07.昆明へ戻る 08.南寧から憑祥へ
09.欽州から広州行き 10.大都会の広州では 11.Kさんと広州 12.帰国すると


07.昆明へ戻る

 景洪の東約50キロの山間にある基諾(ジノ)へ行くことにする。
ミャンマー人商店街のあいだを歩いて、バスの発着所へ向かう。

 朝御飯を食べている人もいる。
彼等は店を開けると掃除をしながら、近所のビーフンやさんから出前をとる。
そして、店先に腰掛けて食事というわけである。
店先で食事をとる風景は、景洪に限らない。
どこの都市にいっても、店員さんたちはショーウインドウの前、後ろ、横、とにかく店のなかで食事をする。
お客が 入っていくと、箸をとめて応対する。

 しかし、なかには箸を動かしながら対応する人もいる。
お客のほうも平然としており、何とも思わない。
客も食べながらの店員と言葉をかわす。
食べることと仕事が分かれておらず、食事が個人化していないのである。

 バスの発着所は、いつも人が大勢いる。
バスの出発時間まで食事をする人、トイレに行く人、ボーとしている人、あちこちと忙しそうに歩いている人などなど、お馴染みの風景である。
切符を買ってバスにのる。

 路線バスは基諾までは行かない。
その手前の猛盖止まりである。
そこからはまた別の乗りのもを探すことにする。
このあたりでは軽自動車の箱バンが、乗合タ クシーとして使われていることはすでに書いたが、これがどこにでもあるらしい。
時間さえ気にしなければ、乗合タクシーを使って相当な田舎まで行くことがで きそうだ。

 17・8人乗りのマイクロバスは、定刻10時に出発した。
またもや市中でお客を拾う。
山間の家に帰るらしいおばあさんが乗ってくる。
彼女は扇風機を持ち 込んできた。
何に使うのだろうか。
自分たちが風にあたるためか、それとも仕事に使うのか。
荷物が次々に持ち込まれる。
通路はたちまちいっぱいになる。
人は それをまたいで乗り降りするのだ。

 景洪の街をでて、バスは山道にはいる。
この道路は主要な街道らしく、昨日の道とは大違い。
対向四車線の立派な舗装道路である。
高速道路のような感じさえする。
車の通りも多いようだ。
30分くらい走っただろうか、バスは右に折れた。
ここからは道がぐっと細くなる。
田圃の真ん中に、辛うじて舗装された道をバスは走る。
橋を渡って街に入っていく。

 同じようなマイクロバスが停まっている場所に着いた。
ここが終点。
お客が全員降りる。
運転手さんに基諾と書いた紙を見せる。
すると、彼は市場のほうを指さした。
そこからまた違う乗り物がでているのだろう。
言われたほうへと歩いていく。
途中でもう1度聞いてみる。
やはり同じ方向を指さす。
そのまま歩く。

 箱バンの軽自動車が4・5台ばかり停まっている。
あれがそうだろう。
この軽自動車はピックアップというのだろうか、4人乗りの室内と小さな荷台をもって いる。
軽トラの4人乗りバンと思えばいい。
近づいて運転手らしき人に、基諾と書いてみせる。
彼は大きくうなずく。

 そこへまた同じ型の軽自動車がやってきて、僕の脇に停める。
そして、僕に乗れと言う。
中にはすでに人が乗っている。
これも基諾へ行くらしい。
料金を聞くと、2元だという。
安心して乗り込む。
ただちに出発。

 舗装された道を走っていたが、突然として未舗装の脇道にそれる。
これが大変な凸凹道で、埃を巻き上げるはともかく、腰を下ろしていられないのだ。
箱バンとはいえ、トラック仕様の車だから、路面の凹凸を容赦なく拾うのである。

 4人の人間を乗せているにもかかわらず、荷台には何も載せていないことも手伝って、車はぽんぽんとはねる。
そのたびに両手を突っ張り、両足を踏ん張って 腰を浮かす。
むこうからも同じような軽自動車が跳ねながらやってくる。
運転手さん同士で声を掛け合っている。
どうやら近道をしているらしい。

 畑のあいだを走り、集落の前を横切り、自転車を追い抜いていく。
やがて舗装道路にでた。
道はどんどんとのぼっていく。
それから走ること15分、分岐点からそれるが舗装は続く。
山の中に小さな市場が見えてきた。
その前で停車、ここが基諾である。

 基諾とは基諾山のふもとの部落で、2万人の基諾人が住んでいる。
彼等はやはり少数民族だと思うが、山の斜面を切り開きポーレイ茶を栽培して生計を立てているという。
いまでも独特の生活習慣を維持しており、特有の民族料理を食べているらしい。
人口が2万人と聞いてきたが、広い山間部に散らばって住んでいる ので、市場からは集落は見えない。

小学校の帰りらしき子供たち


 市場から先へと歩き始める。
小学校の帰りらしき子供たちが、5人ばかり近寄ってくる。
1年生か2年生あたりではないか。
ランドセルを背負って、いかにも悪戯そう。
汚れているのだろうか、何だか真っ黒である。
子供はどこでも可愛い。
学校から家まであっちに寄りこっちに寄りと、たっぷりと道草をくって帰るに違いない。

 僕が道端に立つ古い建物の写真をとっていると、自分たちの写真を撮れと言う。
カメラを向けると大喜び。
しばらく一緒に歩く。
道の左右には民家が建ち並び、洗濯物が干してある。
男物女物のシャツやズボンにまじって、女物のパンツが堂々と干してある。
このあたりでは女性もパンツをはいているのがわかる。
もっと山奥の山間部、つまり歩いてしか行けない集落に住む基諾人の女性も、すでにパンツをはいているのだろうか。

 女性用パンツの普及も、近代化をはかる規準の1つなのだ。
どこの地域でも近代化が進展し始め、洋服の普及にともなって民族衣装がすたれる。
と同時に、女性がパンツをはくようになる。
男性は民族衣装を捨てて上着が洋服になっても、しばらくのあいだ下着には伝統的なものを身につけていることが多い。
わが国では戦後になっても、ズボンのしたに褌をつけている男性がたくさんいたのを、僕は覚えている。

 西洋で女性がパンツをはくようになったのは、そんなに昔のことではなく18世紀くらいからである。
わが国で女性がパンツをはいたのは、白木屋デパートの 火事以降といわれる。
多くの民族衣装には、女性用のパンツというものはない。
もちろん、着物の下には腰巻きであって、わが国の女性たちもパンツははかな かった。

 中国は共産主義化するとき、国民に人民服を強制した。
人民服とは男女が同じ型で、下がズボンである。
このとき、女性たちが下着に何を選んだか、もしくは 共産党は国民にどんな下着を与えたか。
おそらく男女同型でトランクス型のパンツだったと思う。
それが今ではいわゆるショーツと呼ばれる女性専用のパンツへ と変わったのだ。

 基諾人の民族衣装は、もちろん人民服とは違う。
彼女たちの民族衣装には、女性用のパンツはなかったはずである。
しかし、今では彼女たちも、女性用の ショーツを身につけている。
それが洗濯物からわかる。
これだけの山間部まできても、女性がパンツをはいている。
中国の近代化は相当に進展している、と見る ことができるのだ。
中国の近代化は、決して高層ビルが建つ都市部だけではない。
田舎であっても人々の心が、近代化にむき始めている。

 しかし、女性がパンツをはき始めるのは、立ち小便ができなくなることをも意味している。
わが国でも着物を着た女性は、自由に立ち小便をしていた。
パンツをはかない民族衣装であれれば、女性も立ち小便ができる。
事実、ベトナムでも山間の女性が、ゆったりと立ち小便していた。
僕は女性がパンツをはくのは、男性支配の近代に女性が服従し始めた証だ、と僕は思っている。

 農耕時代に田や畑で働く、ここには労働の質に男女差がない。
ただ腕力の差による量の違いがあるだけである。
働く必要のない支配階級はいざ知らず、日々働 かねばならなかった庶民階層にあっては、男女間の労働に質的な違いはなく、あるのは量的な違いだけだった。
非力な女性は、仕事の量において劣ったが、ここ には男女の質的な差はないのだ。
だから、女性も猥談に加わりえたし、女性も男性に性的なからかい言葉を投げつけえた。

 同質の労働に従事する人間は、同じ価値観を生みだす。
女性の立ち小便も、男性の立ち小便と同じように見なされた。
民族衣装を着た女性たちは、ごく当たり前のこととして立ち小便をしてきた。
そこにはたんに排泄という事実があっただけだ。
ベトナム女性の立ち小便姿は、まったく自然で誰も注目などしていなかった。
ちなみに、インドでは男性もしゃがんで小用をたすのは、「インドの空気」に記したとおりであるが、インドは男女差別がきわめて厳しい。

 農耕社会の男女が同質の労働に従事していた時代から、近代では男性と女性の労働形態が質的に違うものとなる。
近代の声が聞こえ始めると、職業労働と家事労働といったかたちで、男女の労働形態が分離し始める。
職業労働のみ有償で、家事労働は無償である。
そこでは家事労働が、職業労働に従属せざるを得ない。
 
 男女が性別によって、労働の役割分担を始める。
それが近代なのである。
女性は生産労働から切り離され、家庭労働へと押し込められる。
男性は外仕事、女性は内仕事という分担が完成するのは、近代なのだ。
ここで男女にまったく異なった生活倫理が生まれてくる。

 農耕時代には女性も、男性と同じように田や畑で働いた。
そこでは女性はパンツをはいていなかったから、男性と同じように立ち小便をしていた。
しかし、民族衣装を捨ててパンツをはくようになって、女性は立ち小便が不可能になってしまった。

 小用のために女性だけがしゃがむようになった。
ここで排泄に関して、男女の意識がまるで変わってしまった。
パンツをはくことによって、女性は立ち小便ができなくなり、小用の排泄に羞恥心が生まれたのである。

 近代化が始まったばかりの地域では、女性の下着は羞恥心の対象にならない。
女性も立ち小便をしてきた歴史を引きずっているので、小用に羞恥心がともなわない。
だからパンツも羞恥心の対象にはならず、他の洗濯物と一緒に堂々と干すのである。

 近代化の進展にともなって、男女の性別によって労働形態が分離してくる。
そこで、男女別の生活倫理が生まれてくる。
男女別の生活倫理はパンツをはいた女性に、しゃがんで小用を足すように強制する。
男女の生活倫理の違いによって、女性のなかに女性性が意識にのぼり、女性の下着が羞恥心の対象になる。
そのため、女性用の下着が堂々と干されることはなくなり、女性用の下着だけを室内に干すようになる。
これが近代における男性による女性支配の完成である。

 今日から見ると逆のようだが、パンツは女性の行動を狭めた。
農耕社会では、女性はパンツをはかずに厳しい肉体労働に従事した。
パンツの有無は女性の活動性とは関係ない。
しかも農耕時代にあっては、女性の婚前交渉はもちろん認められていた。
夜這いといった形でではあれ婚外交渉も可能だった。
ここでは性交 の選択権が女性にもあった。

 男女が質的に同じ労働に従事した時代に、女性だけが性交の自由をもてなかったことはない。
農耕社会の根底を支えるのは人間の労働力であり、労働力のあり方に反した生活倫理が社会の秩序を支えることはできない。
同質の労働に従事する人間に、異なった倫理を押しつけたら、社会は混乱し生活が成り立たなくなっ てしまう。

 世継ぎの子供を産むことが、最大の使命だった支配者階級の女性と違って、庶民層の女性は労働力であったがゆえに男性に拮抗した行動ができた。
男性と同質に働く女性は、男性と同質の生活倫理に生きえた。
しかし、男性支配が庶民層まで広がった近代では、女性は生産労働から身を引き、男性の所有物となった。

 近代になって確立された終生にわたる一夫一婦制は、女性の婚外性交を認めなかった。
女性による婚外の性交は、ただちに離婚の対象になった。
家事労働しか できない女性が離婚されたら、生きていけなくなる。
女性はパンツをはくことによって、のびのびと立ち小便する自由を失っただけでなく、性交の自己決定権も 手放したのである。

 女性がパンツをはき、立ち小便をしなくなることは、女性の解放には逆行することだったのだ。
もちろんブラジャーを着けることは論外である。
ほとんどの民 族衣装には、女性の乳房を押さえる専用の下着などない。
パンツにしろブラジャーにしろ、肉体の保護になるものでもないし、防寒に役立つわけでもない。
いず れも機能的にはなくてすむものである。
ブラジャーの利点を、下着メーカーはさまざまな理由をつけて吹聴するが、本来ブラジャーは不要なのだ。

 ブラジャーをしない農耕社会の女性は、乳房をさらしても恥じないが、ブラジャーをした現代女性は乳房をさらすことに羞恥心を感じる。
乳房は腕やお腹などと 同様に、肉体の一部分にしか過ぎないのである。
女性がブラジャーをすることは、男性の視線に自らの肉体を性的対象としてさらすことである。
ブラジャーをす ることは、根底的に近代の男性支配に服従することである。
だから、アメリカのフェミニズム運動では、ブラジャーを外すということが謳われたのであった。

 ブラジャーを捨てることは自分の身体を、女性が取り戻す契機だった。
ブラジャーの普及はパンツの普及より遅く、近代化が相当に進まないと女性が身につけ ないことは自明だろう。
自分はいかに近代の桎梏が深いかを、アジアを歩くことによって感じるのである。

 しかし今日、ブラジャーを捨てることはともかく、パンツをやめることはできない。
ブラジャーを着けることが減ったアメリカ女性でさえ、パンツは確実には いている。
もはやパンツをはかずに、スカートやズボンをはくことはできない。
男女ともに、近代の産物であるパンツをやめることはできない。
近代をやめて前近代に戻ることは不可能である。

 孤立する人間、切れる若者、厳しい職場管理など、近代がさまざまに問題を抱えていることは事実である。
そのため、長閑だった農耕社会という前近代の良さ が、懐かしく思い出される。
農耕社会にあった地域社会のつながり、温かい家族関係など、現代社会が失ったものを求めて、今私たちは呻吟している。

 わが国の女性フェミニストを初めとして、近代批判を口にする人は多い。
旧を懐古し、昔を見直す風潮が横溢している。
しかし、近代批判の方向は、前近代か らなされるのではない。
パンツをやめることができないように、前近代へと戻ることはできないのだ。

 赤い褌でホテルのプールサイドにたつことが、ひどく時代錯誤であることは誰にでも簡単にわかるだろう。
時代の流れを無視した価値観を選択することはでき ない。
情報社会化が激しく進む先進諸国では、家族はより小型になって単家族化し、人間はますます個人化していかざるを得ない。
それは不可避なのだ。

 情報社会では虚実の境目がぼんやりとし、労働の手応えが失われていく。
だからと言って、前近代の生活倫理や家族観へたちかえることはできない。
個人化するなかで温かい人間関係をつくるべく、試行錯誤する以外には道がないのだ。
しかも、個人化しながら豊かな人間関係を取り結ぶことは、充分に可能である。

 先進国では、パンツをはいたままでも女性が職業を手にすることによって、性交の自己決定権を女性が回復し始めている。
男女が性別によって別種の労働に従事することをやめれば、女性は自己の全的なを回復できる。
稼ぎのある女性は、男性を買うことすらできる。
前近代に戻ることなく、個人の尊厳を確立すること は可能なのだ。

 パンツの話から随分と脱線したが、近代のもたらしたものがいかに巨大だったかを、僕はアジアの旅から切々と感じる。
そして、先進国で実現されている近代 社会が、さまざまな矛盾を孕んだものであると判っていても、途上国の人々は必死になって近代社会をめざす。
それを眼前にして、異邦人である僕は何とも言え ずにたたずむのである。
しかし、途上国の人たちの近代化への願望を否定しないし、僕は決して前近代に戻ることを選択しない。

 無邪気な小学生たちと一緒に歩く僕は、巨大な中国が近代化しているのを実感している。
こんな山のなかでも、小学生にランドセルを背負わせる中国の豊かさ。
子供を学校に通わせるというのは、その間は子供が労働力にならないことを意味する。
学校は今のためにあるのではなく、将来の生活のために通うものである。
学生とは不労者である。学校こそ近代を普及させる先兵なのだ。

 前方右手の中腹に見えてきた3階建ての建物は、中学校らしい。
左下には運動場が見える。
平地の少ない山間では、校舎と運動場がおなじ高さに作れないらしい。
運動場のもう一段下には、アパートのような建物が見える。
先生たちの宿舎ではないだろうか。

 小学生と前後しながら道をのぼっていく。
集落が見えてきた。
僕を追い抜いて子供たちが走り出す。
彼等の住む家がこの集落にあるのだろう。
家に帰り着いた彼等は、変な外国人に写真をとられたといっているに違いない。
僕たちの子供時代にそうであったように、この山間では外国人の登場はちょっとした事件でもあ る。

 来た道をふりかえると、遠くにも集落が見える。
ここが坂道の頂上である。
ゆっくりと引き返す。
昼食の時間らしく、中学校から大勢の子供たちがでてくる。
何も持っていないところを見ると、彼等は食事を済ませると、また学校へ戻るのだろう。
昼飯を食べに家に戻るらしい。

 2人の女子中学生と並んで歩く。
彼女たちは見知らぬ人間に興味津々である。
でもしゃべりかけるのは恥ずかしい。
それがよく判る。
英語の教科書をもっている。

「ハゥー ワイ ユー」
と僕は言ってみる。驚いた二人は、
「ハゥー ワイ ユー」

と言って、あわてて
「アム ファイン サンキュー、アンド ユー」
と言いなおす。
でも恥ずかしくて仕方ないらしい。
簡単な英語を言ってみる。
教室でならった英語が、いきなり口にされる。
それで意味が通じることに驚いているようだ。

 背広を着た男性が、校舎から運動場のほうへ走っていく。
後ろ姿からも、先生であることが一目でわかる。
肩をゆすって走る姿は、わが国の先生とまったく同じ雰囲気である。

 基諾人たちが、その民族的な特長を失うのは時間の問題である。
民族的な特長を失うことによって、経済的な豊かさを獲得するのである。
そして学校教育を基礎に、中国はこれからより豊かになることは確実である。
しかし同時に、通過儀礼として近代の弊害をも体験させられるだろう。
公害の発生や大家族の解体を生 む近代は、必ずしも甘いばかりとは限らないのである。

 市場へ戻った僕は、蒸かし饅頭やミカンを買って昼食にする。
食後にサトウキビをかじる。
農耕社会には甘い物が少ない。
砂糖のようにきわめつきな甘さはほとんどない。
わずかに甘いサトウキビも充分に美味しい甘さなのである。

 ゆっくりとした時間が流れていく。
2・3台並んだ箱バンの軽自動車に運転手がいない。
食事中なのだろう。
スズキのカルタスがやってきた。
これも乗合タク シーで、猛盖までもどるという。
同じ道を引き返す。
さすがに乗用車だけあって、乗り心地は軽トラとは雲泥の違いだった。

歩道で麻雀が開帳されている

 猛盖から景洪へと、バスで戻る。
景洪の街を歩く。
ここでも歩道で麻雀が開帳されている。
本当に麻雀が好きな人たちだ。
近代が成熟したら、昼間から麻雀などやっていられない。

 飛行機の時間には、まだ間がある。
景洪の南はずれにある民族風情園に向かって2キロくらいを歩く。
広い敷地のなかに、近在に住む少数民族の展示館や動物園がある。
そのうちのいくつかに寄ってみるが、ほとんど来ない客を待ちくたびれた係員は、木のしたで麻雀をしている。

 金網で囲まれたなかに、鳥が放し飼いになっている。
縦横100メートル以上はあるだろう。
高さも10メートルくらいある。
さまざまな木々が植えられ、池 もある。
孔雀もいる。
名前のわからない美しい鳥が遊んでいる。
鳥の鳴き声がうるさいくらいである。
落ちてくるフンに気をつけながら、金網のなかで人間と鳥 が一緒に歩くのだ。
あまりの長閑さに拍子抜けする。

 飛行機の時間が迫ってきた。
街の中心へ戻る。
池のまわりを歩いてホテルに向かう。
途中で足のマッサージ屋さんをみつける。
3人の男性がヘラのようなものを握って、足の裏を揉んだり押したりしている。
2人の男性と女性1人が客である。

 真ん中でマッサージを受けている女性は、キックーとばかりに顔をしかめた。
気持ちよさそう。
僕もやってもらおうと、隣に座って待つことにする。
しかし、 3人ともなかなか空かない。
時間がかかりそうだ。
残念ながら、諦めることにする。
そして、ホテルに預けた荷物をひろって飛行場へと向かう。

 2度目の昆明は、慣れたものである。
空港をでても、不思議と客引きが寄ってこない。
彼等もわかるのだろうか。
67番のバスにのって市内に入る。
今度は昆明駅近くの三葉飯店に泊まる。
100元でも清潔。
バスタブもあるし、石鹸、歯ブラシもある。
ちゃんとお湯もでる。
ざっとシャワーを浴びて、夕食に街へとで る。

 いよいよ鴨を食べるのだ。
フロントの人に鴨の美味しい店を聞く。
学成飯店と書いてくれた。
ここから3キロほどあるというから、歩くのは諦めた。
タクシーの運転手に書いた紙を見せる。

 学成飯店はすでに営業を終わろうとしていた。
しかし、まだ食べている人がいる。
何とか頼み込んでテーブルにつく。
まず、ビールをたのみ、次に宜良焼鴨を注文する。
これが石林へのバスから見えた鴨である。
食べ方は北京ダックと同じ。
鴨皮にミソをつけ、ネギと一緒に春巻きの皮に包んで食べる。
ほかにも鴨の料 理がある。あと2品たのむ。

 店はすでに閉店の体制らしく、コックさんが調理場から店に出てくる。
そして、僕の隣のテーブルで、女性もまじってカードを始めた。
彼等は賭けているらし く、かなり熱くなっている。
二階にも客席があるらしく、食べ終えたお客さんが次々に降りてくる。
僕は満足しながら、鴨を食べた。
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