団塊男、中国を歩く    雲南地方から広州へ  
2000.12.記
01.川崎から昆明へ 02.昆明の街にて 03.石林往復 04.大理:下関と古城
05.景洪へ飛ぶ 06.景洪からのバス旅行 07.昆明へ戻る 08.南寧から憑祥へ
09.欽州から広州行き 10.大都会の広州では 11.Kさんと広州 12.帰国すると


11.Kさんと広州

 広州の朝は飲茶である。
新亜大酒店の9階の飲茶レストランで朝食にする。
ここでも茶碗洗いが盛大に行われている。

 Kさんがレストランの従業員と話をしている。
彼女たちは田舎から広州へでてきて、今はホテルの裏にある寮に暮らしているのだそうだ。
僕の部屋から見えた渡り廊下でつながったあの建物がそうだろう。

 広州に居住するためには、市に登録しなければならない。
そのとき、登録料として60元を支払う。
いわば市民税のようなものだ。
それは雇用者が支払ってくれるらしい。
しかし、勤務状態が悪いと、ただちにクビになるのだそうだ。
かつては働いても働かなくても、同じ給料が保証されたが、今ではそんなことはないという。
国営企業でも2日無断欠勤すれば、クビがとぶとKさんは言っていた。
赤い中国も変わったのである。

 9時頃、Kさんとホテルをでる。
Kさんが散歩を兼ねて、近くを案内してくれる。
トロリーバスの走っている通りを北上する。
左折して上下九路へ入る。
まず、華林禅寺にいく。
今から72年前、このお寺の近くでKさんは生まれたのだという。
もちろん今はまったく様子が違っており、昔の面影はまったくないとい う。

 現在もこのあたりは工事が進行しており、街の様子はどんどんと変わっている。
建築中の超高層マンションが完成に近く、売り出しの垂れ幕がさがっている。
高価なこうしたマンションを購入する人が、広州にはすでにいるのである。

 昔の街並みが残された一画があり、これも近々壊されて高層化されていくのだろう。
戦前、このあたりには憲兵隊の詰め所があり、そこに連れて行かれた人は戻ってこなかった、とKさんは言う。
想像がつくだけに、僕は何とも返事のしようがない。

華林禅寺


 工事現場の間を通って、華林禅寺に入っていく。
お線香の香りが境内に充満している。
地元の人たちの信仰の対象になっているお寺で、観光客はまったくいない。
お堂の内部には、五百羅観さんが安置されている。
金ぴかの真新しい仏様で、座った姿が多い。
1メートル以上はあろうか。大きな羅漢さんである。

 4人組の時代には、この寺も荒廃したに違いない。
羅漢さんは、1.5メートルくらいの台座に乗っているが、当時残っていたのはその台座だけだったという。
台座から上のものはすべて壊されたり、持ち去られてしまい、お堂のなかには何もなかったらしい。
それを喜捨によって回復してきたという。
もちろん海外にいる華僑からの喜捨も多く、地元の人たちだけでは、こんなに早くここまで回復することは難しかった、とKさんはいう。

 お堂のなかでは現在も喜捨の勧誘が続いており、若いお坊さんが2人奉加帳を前に座っている。
Kさんは黙って喜捨、記帳する。
僕も心だけと5元札を喜捨すると、最低10元からだという。
そこでもう10元足して、15元とする。
これで僕も記帳ができた。
華僑であるKさんは、自分は貧乏だからと謙遜するが、お そらく大金を喜捨しているに違いない。

 華僑の母国への愛着は強い。
何世代にわたって外国に住んでいても、その子孫たちは母国中国への思いを強く持っている。
わが国では華僑が政治を動かすこと はあまり聞かないが、華僑が政治の実権を握っているアジアの国もある。
そうした華僑の財力は尋常なものではなく、母国への喜捨も想像をこえる大きな金額だ ろう。

 功なり名をとげた一世が、出生地の母国へ喜捨するのは理解できる。
しかし、今の華僑たちは、母国を離れてもう何世代もたっているのだ。
何世代も経てその地に土着化したから、政府の要人にもなれたのである。
彼等は中国語が話せないかもしれない。
それにもかかわらず、母国への愛着が持続するのは、一体どうし たわけなのだろう。

 華僑たちの多くは、ごりごりの反共主義者であったに違いない。
共産主義政権の胎動期には、毛沢東に反対し、反共産側にたくさんの献金をしただろう。
中国の赤色化は、華僑の希望ではなかったはずである。

 しかし、中国が共産化したにもかかわらず、華僑たちは変わらない愛着を母国に捧げる。
国家は時に残酷な仕打ちをするが、それでも国を捨てられないのが人間なのだろうか。
国連中心主義なんていう言葉が色あせて聞こえる。

 わが国の中国人差別は凄まじいものだったと聞く。
12歳で日本にわたったというKさん。
となりで佛に頭をたれているが、彼の心にはどんな感興が去来しているのだろうか。
母国を離れると、自分はたった1人だと感じる。
彼も日本でたった1人だったに違いない。
本当に1人になったとき、本当に自分1人で生計を たてねばならなくなったとき、人間は自分の血縁へとすがっていくのだろうか。
心より血が濃いのか判らない。歴史の前に圧倒される。

 華林禅寺をでて、上下九路に戻る。
上下九路は古くからの繁華街で、有名な店がたくさん並んでいる。
食は広州にありで有名な広州酒家もここにある。
食事をするつもりはないが、広州酒家に入ってみる。
ロビーから中庭へでる。
その上は3階まで吹き抜けである。
中庭を中心にしてロの字型に客席が並んでいる。

 壁にさまざまなメニューが張り出されている。
どれもコース料理らしい。
1つのコースに20品くらい書かれて、それぞれが1、000元前後である。
これで 12〜3人前だと、Kさんは言う。
日本人の団体もよくここへ来るらしい。
僕たちは見るだけで、広州酒家から外へ出る。

 上下九路を西へ進む。
甘味屋さんがある。
甘い物に目のないKさんは、ちょっと休憩していきましょうと中へはいる。
150人は収容できると思われる店に、空き席がない。
空席かと思えば、仲間の人が来るという。
席取りをしているのである。
柱の影にやっと空席を見つける。

 カウンターが奥にあって、すべてセルフサービスである。
ここは安い美味いの有名店であろう。
人気のあるコーナーには、人が折り重なっている。

 近代化し始めた中国では、人が並んで待つことができるようになっている。
インドやモロッコとは違って、バスでも駅でも人は列をつくって並ぶ。
列車の切符売り場が、昔は戦場と化していたらしい。
近代化がすすむ今の中国は、かつての中国とはまったく違う。

 しかし、食べ物を目の前にすると、割り込む人がでて列が崩れがちとなる。
微笑ましい光景である。僕も列からはじきだされないよう、必死になって前の人にくっついている。

 Kさんはミルクを煮詰めたスープのような甘い物を、僕はカエルのお粥をたべる。
かわいらしいカエルの骨が口に残る。
実にあっさりした味である。
日本では 決して食べることができないだろう。
他のテーブルでは、よく判らないものが美味そうに次々と人の口に運ばれている。
食べ続けることができないのが、ほんと うに悔しい。

 店をでて清平路にはいる。
狭い路地には小さな店が所狭しとならんでいる。
ここは自由市場で有名な清平市場である。
日用品から食料品まで何でも売っている。

 僕の歩いているあたりは、ペットショップのコーナーらしい。
農耕社会の見方からすれば、ペットとは生き物に無駄飯を食わすことである。
庶民が生き物をペットとして飼うのは、中国が裕福になった証拠である。
 
 金魚、熱帯魚、小鳥、トカゲ、もちろん犬や猫もいる。
すれ違うのがやっとという狭い通路の両側には、おびただしい生き物が並んでいる。
 
 角を曲がると、店の種類が変わった。
食料品が並んでいる。
乾燥した魚など強烈な臭いもする。
カニが手足を縛られてならんでいる。
エビ、スッポン、名前の知 らない魚が桶で泳いでいる。
小さなサソリが白いボールのなかに無数にいる。
3センチくらいだろうか、煎って食べると美味しいのだそうである。

 鶏が生きたまま売られている。
注文があると、籠からとりだしてまな板の上でさばく。
今さばき終わったのだろうか、まな板の上が血だらけである。
鶏にもさ まざまな種類がある。
アヒルもいる。
同じような籠の中に猫がいる。
このコーナーにいる猫は、ペットではない。
食用である。
犬もいる。
ほんの20メートルく らい離れただけで、彼等の運命はまったく違う。

取り壊されている清平市場

 この清平市場も徐々に取り壊され、近代的な商店へと変わっていくようだ。
清平路の南端は、すでに建物が取り壊されている。

 市場から商店への変化とは、流通形態が変わることである。
商店では生産者が消費者へ直接に売るのではない。
あいだに売り買いするだけの商人が入る。
市場では作った人間が品物を並べるが、商店は仕入れてきて品物を並べるのだ。
ここでも小規模な店は、淘汰されていくに違いない。

 歩道橋で六二三路をこえる。
6月23日に行われた日本の残酷な仕打ちを忘れないために、六二三路と名付けられたという。
今ではただ車が通り過ぎるだけの道路だが、当時は両側に店が並んでおり、もっと狭い道だったらしい。

 六二三路をこえると、ここからは沙面である。
古い洋館が整然と建ち並ぶのは、中国ではない雰囲気である。
かなり老朽化しており、ここにも時代の波が押し寄せてくるのは、時間の問題だろう。
建て直すか、取り壊すか、改修するか。
どの道を選ぶにしても、中国人はけっして歴史を忘れないだろう。

 広州でナンバーワンのホテル、白天鵝宝館がみえる。
1995年には中国一として、観光局から表彰されたとか。
1泊1、000元近いので、僕には無関係のホテルである。
しかし、観光客というのはやはり裕福なのだ。

 貧乏旅行者の僕でも、白天鵝宝館に入ってみようという気がおきるし、また入ることもできる。
そしてお茶くらいなら、そこで楽しむことができる。
しかし、 ほんとうの貧乏というのは、白天鵝宝館に入ろうという気すら起きなくさせるのだ。
そして、何かの拍子に本当の貧乏人が入ろうとすると、入り口に立つドアー ボーイに厳しく拒絶されるのである。

 広州には乞食がいる。
歩道に寝そべり、物乞いをする人たちである。
たいてい上半身がはだかで汚れており、身体的な欠損があることが多い。
しかし、広州の広さからすれば、本当に少ないといってよい。

 社会福祉の整備が遅れている中国では、いましばらく障害者は過酷な運命を甘受させられるだろう。
社会福祉とは成熟した社会でのみ可能なのである。
障害者でも働ける環境をつくるには、お金と時間がかかる。
豊かになった中国だが、それまで貧乏の尻尾はなくならないだろう。

 白天鵝宝館にはいる。
吹き抜けになったロビーには、ゆったりとした空気が流れ、ピアノの音が聞こえてくる。
トップライトから落ちてくる光、手摺りの向こ うに見える池。
植え込まれた植物。
レストランの向こうには珠江がみえる。
チャイナドレスのウェイトレスが行き交う。
ここは中国人だけで設計した、とKさん は誇らしげに言う。

 珠江ぞいを歩いてみる。
川にそった歩道にはベンチがならび、老人たちがすわっている。
この老人たちの身なりはしっかりしている。
引退した人たちだろう。
向こうから若い女の子が4人、横に広がって歩いてきた。
高校生くらいだろうか。
驚いたことに、4人のうち3人がミニスカートである。
そして、全員が厚底靴を履いている。

 広州ではときどきスカートの女性を見る。
何人に1人の割合だろうか。
100人に1人か、いやもっと少ない。
500人に1人くらいだろうか。
ミニスカート のこともあるし、ロングのこともある。
Kさんによれば、夏には女性の半分くらいがスカートだという。
人民服はもう誰も着ていない。
そして、若い女性には厚底靴が大流行している。

 今まで中国ではあまり美人を見かけなかった。
スタイルが良いかと思えば顔に驚いたり、顔の形はいいのだが歯並びが悪かったり、そして肌に吹き出物が多 かったりと、中国に美人は少なかった。
化粧をしている女性もいたが、化粧の仕方が直接的でなにかしっくりとしていない。
化粧が素肌に一体化していない。
よ うは化粧がまだ下手なのである。

 わが国の女性たちのほうに、美人が多いような感じがする。
わが国の女性たちは、ナチュラルメイクという化粧をしていないように見せる化粧を体得してい る。
ナチュラルメイクという優れた、かつ恐ろしいテクニック。
この域に達するには、時間とお金がかかるのである。

 女性は磨かれて美人になる。
美人はお金によってつくられる。
流行なるものが動きだした中国、やがて歯の矯正も始まるだろうし、美白・美顔術もうまれるだろう。
中国の女性たちも、自分のためにお金と時間を費やすようになるのは、もう時間の問題である。

 新亜大酒店の前に戻ってきた。
Kさんと別行動にする。
トロリーバスで北京路へ、そこでバスを乗り換えて広州東駅へ向かう。
広州は本当に広い。
いけどもいけども同じ景色が連なっている。
そして、あちこちに超高層ビルが見える。

 広州東駅着。
新しい駅である。
地下鉄も走り、バスターミナルも整備されている。
このあたりがこれから広州のオフィス街になるのだろうか。
まだ空き地も目立つが、超高層ビルも建ち始めた。
次回来たときは、どう変わっているだろうか。

 バスに乗って、今度は広州駅へ行く。
広州駅の朝と昼間の違いを見たい。
ガイドブックによれば、広州駅の付近は治安が悪く、地元の人たちも避けるという。
広州駅前に30分ほど立って、人の流れを眺める。
せわしなく往来する人たち、激しい人の流れ、どこも駅前は変わらない。

 今度は郊外にいってみる。
2元払って冷気バスに乗る。
珠江にかかる人民大橋をわたり、高速道路にはいる。
道路の付近には空き地がたくさんあり、もう広州 といった感じがしない。
芳村信用銀行とみえる。吉村さんの銀行ではない。
芳村という場所だろうか。
地下鉄の終点をこえる。
バスはいつまでも走り続ける。
やっと終点についた。

 そこは小さな町といったほうがいいかもしれない。
バス停の付近こそビルが建ち並んでいるが、ちょっと歩くともう古くからの家が見える。
しばらく歩きま わってからバス停に戻り、来たバスに乗る。
冷気バスと書いてあるが、窓は開け放たれている。
これでは冷房が効くわけがない。

 文化公園まで戻ってきた。
すでに8時近い。
新亜大酒店に戻る路上で、Kさんにばったりと出会う。
夕食にいこうと誘われたが、僕はもう人民元がいくらもな い。
中国にいるのは今夜だけだから、あらためて日本円を両替する気がないのだ。
今夜はわずかな手持ち金で夕食にしたい。
Kさんが了解してくれる。
近くの安食堂に入る。
ビールと焼き肉をとる。

 共産主義の中国でも、夜の女性がいるという話になる。
いつかホテルに電話がかかってきたことがある。
あれがそうなのだそうで、日本人が投宿するとなぜかわかるのだという。
そして、女性がホテルにやってきて、相手を務めてくれるらしい。
1晩ずっと一緒にいてくれて、500元だという。
お金もないし、言葉の 通じない女性と一緒にいても楽しくない。今回は遠慮した。

 Kさんはほぼ中国の全土を歩いている。
彼はあさってから海南島へいくのだそうだ。
中国の事情に詳しいKさんの話はいくらでも続いた。
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