団塊男、中国を歩く    雲南地方から広州へ  
2000.12.記
01.川崎から昆明へ 02.昆明の街にて 03.石林往復 04.大理:下関と古城
05.景洪へ飛ぶ 06.景洪からのバス旅行 07.昆明へ戻る 08.南寧から憑祥へ
09.欽州から広州行き 10.大都会の広州では 11.Kさんと広州 12.帰国すると


10.大都会の広州では

 途中でトイレ休憩があり、一度だけ下車する。
道路の状態が良く、揺れも少なかったに違いない。
それ以外はまったく目を覚ますことなく、僕はよく眠っていた。
明け方になって気づいてみると、バスはもう都会のなかを走っていた。

 曲がりくねった高速道路を走り、街の中心へとバスはすすむ。
だんだん車が多くなってきた。
まだ外は薄暗い。
どこを走っているのだかわからない。
高速道路をおりる。

 バスが急に曲がった。
そして、立体駐車場を2階へと上っていた。
ここは広州のバス発着所である。
何層にもなった発着所で、あたりはバスだらけである。
発着のゲートは膨大な数あって、こちらからは向こうの端は見えない。
バス発着所の建物は、排気ガスのせいでかやや薄汚れている。

 僕の乗ったバスは、2階の一番右端のゲートに停まった。
昨日の朝7時から始まったバスの旅が、今やっと終わった。
欽州で乗り替え休憩があったとはいえ、24時間のバスの旅だった。
豪華夜行バスではよく眠ったが、それでも眠りは浅く疲れているはずだ。

 中国全土と広州がバスで結ばれているのだろう。
おそらく数日にわたって走り続けるバスもあるに違いない。
広大な中国のこと、いまだ鉄道が敷設されていない地域もある。
バスが公共交通の要なのだと思う。
 
 建物をでる。
すでに明るくはなった。
前には高速道路が走っており、大勢の人が歩いている。
いったい僕はどこにいるのだろう。
地図を手に近くの警察官に尋ねる。
すると、広州駅にすぐ近いらしいことがわかった。
まずは広州駅にいってみよう。
人の流れに従って、歩き始める。
道路の反対側にも、大きなバスの発着所がある。

 500メートルも歩かないうちに広州駅が目に入ってきた。
屋根に金文字で大きく「広州」と掲げられている。
駅前の広場は工事中で、フェンスに囲まれている。
手前にタクシーの、その向こうには市内バスの発着所がある。

 中国の内陸部から都会をめざした人々が広州へと殺到し、盲流といわれる人が広州駅前には、たむろしていると聞かされてきた。
たしかに人がたくさんいる。
工事中のフェンスにそって、大勢の人がしゃがんでいる。
しかし、彼等が盲流かどうかはわからない。
僕には普通の中国人に見える。

 駅を確認すると、僕は大通りを南のほうへと歩きだした。
すると、すぐにホテルの客引きがよってくる。
僕もホテルを決めなければならないのだが、まだ朝も早い。
ゆっくりと決めればいいと思っているので、客引きには興味がない。
しつこい客引きは、僕と肩を並べてどこまでも歩いてくる。
彼の提示する料金は安く ない。
150元だという。
大都会の洗礼なのだろうか。

 歩いても歩いても、同じ街並みが続く。
広い道路、高いビル、走り回る車そしてバス、道路清掃の人、ここは本当に大都会である。
いくら歩いても、地図の上 で進んだ距離はほんのちょっと。
いつまでたっても街の中心にたどり着かない。
しかたなくタクシーに乗る。

 北京路にむかう。
昆明にも北京路があった。
北京路とはわが国の銀座通りのようなものだろう。
その街で一番古くて、にぎやかな通りに違いない。
それにして も広州の道路は広い。
通りの両側には、新しいビルが建ち並んでいる。
タクシーは広い通りを猛スピードで走り、たちまちに北京路に到着した。

 北京路は古い通りらしく、対向2車線の狭い道路である。
長さも1キロとはないようだ。
両側には灰汁ぬけた商店が店を並べ、ちょっと横浜の元町風といった 感じがする。
CD屋さんとかブティックが店をだしている。
ケンタッキー・フライドチキンやマクドナルドもある。
このあたりで宿を決めたい。
しかし、北京路 にはホテルがない。

 招待所というのに入ってみる。
招待所とはいわば簡易旅館で、原則として中国人しか宿泊させない。
中国各地で見てきたが、いずれも安い料金が掲示されてい た。
ところによっては外国人でも宿泊可能というが、ここはどうだろう。
にこやかに断られた。
対応にでた女性がカタコト英語だったのが、とても印象的だっ た。
中国ではなかなか英語が通じない。
英語での対応とは、ここが大都会である証拠なのだろうか。

 北京路が北京南路と名前を変える交差点に、麗都大飯店がそびえている。
一応値段だけでも聞いてみよう。
中国のホテルは、フロントに料金が掲示されており一目でわかる。
300元から。
うーん、やっぱり。

 広州には2泊するつもりだから、なるべく安いホテルにしたい。
いままで中国の田舎をまわって、僕は金銭感覚が中国になじんでしまった。
昆明で最初に泊 まったホテルが、350元だったことをすっかり忘れている。
中国での第1泊めだったら、300元は安く感じただろう。
しかし、今では300元は高額なの だ。

 広州ではあてもなく歩くというわけにはいかない。
歩くにしては街が広すぎるのだ。
沙面にむかってバスに乗ってみる。
沙面とは中国が植民地だった時代、外国人の居住区だった出島である。
沙面は中国人が立入禁止だった。

 広州のなかには珠江という大きな川が流れている。
珠江が二股にわかれる分岐点に沙面はある。
バスは珠江沿いに走り、文化公園の近くで珠江から離れる。
文化公園の近くは、下町のような雰囲気。
安宿がありそうな感じがする。
ここでバスを降りたいが、バスがなかなか停まらない。
ずいぶんと行きすぎてやっとバスが停まる。

 バスの走ってきた道を戻る。
人民南路にでる。
トロリーバスが走っている。
このあたりは道幅が狭く、工事中でもある。
しかも上を高速道路がはしっているせいか、なんとなく街が暗い。
しかし、道行く人は普段着といった感じで、ここが下町であることがわかる。
住み心地がよさそう。

 1軒目のホテルに入ってみる。
260元だが、180元にするという。
フロント応対がとても感じいい。
この近くにはホテルがたくさんある。
もう少し安いホテルがないかと、2軒目・3軒目を捜す。
どこでも200元以上はするようだ。

 結局、最初のホテル・新亜大酒店に戻って部屋を見せてもらう。
5階の505号室。
ダブルベッドにテレビ付き、もちろんバスタブもある。
ここに決める。
保証金込みで500元の前払い。
ホテルの名前を書いたカードをくれる。
このカードが鍵の代わりというのだろう。

 すでに正午を過ぎている。
広州に着いてから5時間もたっていた。
まず風呂にはいる。
しかし、バスタブが大きいせいか、なかなかお湯がたまらない。
お湯の 深さ10センチくらいだが、待ちきれずにバスにつかる。
お湯を身体にかけながら、石鹸を使う。
南寧から欽州への砂埃、夜行バスの汚れを落とし、やっとさっ ぱりした。

 さあ市内を歩こう。
フロントで西漢南越王墓博物館へ行く方法を聞く。
中国語のわからない僕は、フロントの女性たちの良いおもちゃになる。
暇なのだろう。
笑いながらの筆談が続く。
ホテルの前のバス停から、2番のトロリーバスに乗れということだった。

 トロリーバスというのは不思議な乗り物である。
見た目はバスのようだが、ほとんど音がしない。
静かに走り出し、静かに停まる。
排気ガスはまったくでない。
 
 市内の路線バスは、ワンマンというのだろうか、運転手だけで車掌さんはのっていない。
トロリーバスもまったく同じ。
前乗り後ろ下車で、乗るときに運転手 さんの脇にある運賃箱へ料金を入れる。
これも運賃は1元。
ただし、空調のきいた冷気バスだけは、2元である。

 中国のバスではおつりがこない。
しかし、市民たちは実に上手くやっている。
1元がないときは一緒に乗る人から1元もらって、自分は2人分として2元札を運賃箱へ入れるのである。
一緒に乗る人は、2人分入れた人を指さす。
それで運転手さんは了解する。
ここでは2元札が実に便利に使われている。

 さっそく僕も実験してみる。
2元札を見せながら、隣の人の腕をちょんとつつくと、彼はすぐに理解し1元札を僕に手渡してくれた。
実に慣れたものだ。

 料金箱は運転手側だけがガラスでできており、運転手には入れたお金がわかる仕組みになっている。
よれよれの紙幣を入れたりすると、運賃箱のなかに入りきらないとことがある。
紙幣の頭がちょっと運賃箱からのぞいているのだ。

 すると運転手さんは、針金でできた耳掻きの長いものをとりだし、おもむろに運賃箱の入り口からつつくのである。
すると紙幣が下に落ちていく。
これはトロリーバスも普通のバスも同じようにやっている。

 新亜大酒店の前が始発だから、車内はがらがらだった。
だんだんと混んできて、20分も走るとぎゅうつめになった。
すると、運転手さんはやおら立ち上がり、
「おーい、奥へつめろ」
とどなった。

 混みあって参りましたので、どなた様もお詰め下さいとか、しばらくのご辛抱をお願いします、なんてお客様あつかいの言葉はない。
「おい、そこの男、ほらお前だよお前、もっと奥につめろよ」
と、一人の男性に指をさして、まくしたてる。
なにせ熱烈服務だから容赦はない。
「まだわからないのか、奥へつめろって言っているだろう。お前だよ、お前」
ってな感じで、厳しい叱責の言葉がとぶのである。

 いつもは元気な中国人も、運転手さんの叱責に対しては、だれも反論しない。
みな下を向いたまま、じっとしている。
運転手さんはまだ気がすまないようだったが、何とか発車した。

 広州の街には車が多い。
そのためかどうかわからないが、何となく空気がかすんでいる。
喉がいがらっぽくなるような気さえする。
排気ガスのせいではなく、 砂埃かもしれない。
わが国でも、今では舗装が行き届いたせいでかそんなことはなくなったが、以前はワイシャツの襟が茶色くなった。
広州では汗による汚れだ けではなく、砂埃も体についてくるような気がする。

X型の歩道橋のうえから


 トロリーバスはなおも客を乗せて、解放北路を北上し続けた。
越秀公園のまえで降りる。
少し戻って、横断歩道橋をわたる。
中国の横断歩道橋は交差点の上 に、X型にかかったものが多い。
これだと、交差点の中心に立つことができる。
北にのびる解放北路は、遙かかなたまで車でびっしりと埋めつくされている。

 西漢南越王墓博物館は、解放北路に面して建っていた。
2200年前の前漢時代、南越国の文帝の石室墓である。
これは1983年に偶然に発掘されたとあり、館内には石室墓が復元されて出土品が展示されている。

 入り口から最上階まで、建物の中央を一直線に階段がはしっている。
大胆な平面計画で、こうした階段のあつかいはわが国ではあまり見ない。
1時間くらいかけて丹念に見る。

 次に行くところは、陳氏書院である。
約100年前に、広州の陳姓の人たちが、お金をだしあって造った書院である。
典型的な中国南方建築の様式を採用した建物で、きわめて保存状態が良い。
ここでは南方貴族の生活が彷彿できる。
現在は広東民間工芸博物館として使われている。
ここは行き方が判らないので、タク シーに乗る。

 タクシーの運転手さんに、広東民間工芸博物館と書いた紙を見せるがわからない。
陳氏書院ならわかるのだろうが、僕はそれに気がつかない。
広東民間工芸博 物館の紙を何人もの運転手さんに見せる。
やっと頷いてくれる人が現れ、タクシーが走りだす。
陳氏書院には着いたのだが、運転手さんは裏口につけてくれたのだった。
細い路地を通って裏口から陳氏書院に入る。

 裏口にはおばさんがおり、入場券を買ってこいと言う。
すでに中庭には入っているのだが、入場券は正面入り口にしか売ってないので、僕は正面入り口に向か う。
その間おばさんは、僕が切符を買わないと疑ったのだろう、ずっと僕を監視し続けていた。
そして、僕が切符を買うのを見届けると、満足した様子で部屋に入っていった。

 陳氏書院は日の字型の間取りで、中庭を渡り廊下が横切っており、床は石敷きである。
高い天井にすき間だらけの壁。
開放的なつくりで、至るところに精巧な 彫刻が施されている。
建築が手作りされていた時代のものだ。
工業製品が作る今日の建築では、もう見ることができない。

陳氏書院

 おそらくここは寝起きのための建物ではなく、一種のサロンのようなものだったに違いない。
子供たちの教育も行われていた、と入場券と一緒にくれた英文のパンフレットには書いてある。
細部への光のまわりかたが美しい。
写真をとる。

 正面入り口をでると、切符売り場の前は広場になっている。
その先に地下鉄の乗り場がある。
その階段を降りていくと、近代的な金属で囲まれたコンコースに でる。
わが国の地下街に比べるとやや薄暗いが、それでも充分に清潔である。
壁には照明入りの看板がたくさんあり、資本主義国となにも変わらない。

 切符は自動販売機で買うが、ここではコインしか受け付けない。
定期などを買う出札口があって、そこで両替する。
3駅まで2元である。
切符を自動改札口に いれて、ホームへと降りる。
黄色い車体の電車はなかなかにスマートである。
人民公園で降りる。
外へでるときも、切符を改札口に入れないとバーが動かない。

 人民公園から北京路まで歩く。
今日は日曜日で、北京路は歩行者天国だった。
車の走らなくなった道路には、屋台や模擬店がでている。
もちろん人も多い。

 結婚式を控えたカップルが、さまざまに演出した写真をとるのが流行っているらしい。
そのための写真屋さんがあり、バックなどの建て込みをもった仮設店舗がでている。
白いウエディングドレスを着た女性が、パンフレットを手に客引きをやっている。

 さすがに疲れてきた。
今度は3番のトロリーバスに乗って帰る。
新亜大酒店の前は、1番、2番、3番それに6番のトロリーバスの発着所になっているのだ。
どれかのトロリーバスに乗れば、ホテルに戻れるので、これはとても便利だった。

 ホテルにて一休みと思って、5階でエレベーターを降りる。
すると、そこに1人の老人がいた。
彼はKさんといって、広州で生まれて12歳で日本にわたり、 いまでは東京に住んでいるという。
すでに何度も中国にきており、このホテルが広州での定宿なのだそうだ。
日本人がこのホテルに投宿したのを、ルームサービ スの女性からきいたと、親しげに話しかけてくる。
中国語がぺらぺらで、実に気のいい人である。

 夕食を一緒にしようということになったが、ちょっと疲れているので、僕は1時間ばかり仮眠させてもらう。
Kさんも昼御飯が遅かったので、好都合だとい う。
エレベーター前に8時集合とする。
シャワーを浴びて、ベッドに横になる。
なかなか眠れない。
うとうとしている間に時間が過ぎ、8時になる。

 道路はホテルや店からの照明がこぼれて、昼のように明るい。
昔コックだったというKさんと連れだって、珠江のほうへと向かう。
珠江のほとりにレストラン があって、そこが美味しいのだとKさんがいう。
何度もきている店らしく、店の人とも顔なじみらしい。

 2階にあがると、丸いテーブルがたくさん並んでいる。
川のほうのテーブルは、すでにすべて占領されている。
テーブルにつくと彼は不思議なことをやりだし た。
ウエイトレスが注いでくれた湯飲み茶碗のお茶を飲むのではない。
もう一つの茶碗をお茶の入った茶碗に入れて、くるくるまわし始めた。
湯とうしを始めたのである。
見ると他の人も同じことをやっている。
これは広州人なら誰でもやることで、茶碗をお茶で洗っているのだとか。

 中性洗剤が普及し始めた中国では、洗剤のすすぎ残りを気にする人たちが、テーブルのうえで茶碗を洗うのだ。
それが今や普通の光景である。
広州ではどこの 店に行っても、ほぼすべての人がやっている。
店のほうも心得たもので、茶碗を洗ったお湯を捨てるための器を用意している。
茶碗洗いの儀式がすんでから、食べるものを注文することになるのだ。

 ビールをたのむが、Kさんはアルコールをまったく飲まない。
僕につきあってコップに半分ほど受けてくれる。
料理は何がいいかと聞かれ、魚をと答える。
1 人では大きな魚料理が食べられないのだ。
レストランの入り口には、さまざまな魚が泳いでいたのだ。
広州人の口はごまかせないから、おそらく今日捕れた魚だ と思う。

 僕たちは一階に降りていった。
泳いでいる魚を吟味する。
グラムあたり何元かが、すべて書かれている。
料理方法による値段の違いはないのだろうか。
Kさん の目は真剣である。
スッポン、蟹などさまざまな生き物がいる。
魚とウナギ、それにエビをたのむ。
そこにはヘビもいたが、カリカリしているだけだというので、今日は止めておく。

 テーブルに戻ると、また2皿ばかり追加する。
こんなに食べきれるだろうか。
日本の中華料理もけっこう美味いが、材料の良いのが手に入らない。
日本では冷凍物だから、こちらの味にはかなわない、とKさんはいう。
そして、蒸し物に最大の違いがあるのだとか。
魚の背骨のなかに少し血が残るくらいが良く、血がに じんでいないのは蒸しすぎだという。
日本人は血がでているのを嫌うから、どうしても蒸しすぎになるのだそうだ。

 次々とでてくる料理を、僕はがつがつと食べた。
それぞれの料理には微妙な味が隠されている。
しかし、やはり食べきれなかった。
Kさんは大の甘党で、食後 にはお菓子を注文した。
たらふく食べたあとでも、甘い物が少し食べたくなるのは不思議である。
僕は白酒を飲んだにもかかわらず、お菓子もパクつく。
おかげで下が向けなくなった。

 2人で200元だった。
石林でぼられたのとは違って、実質的だったにもかかわらずこの値段である。
老人と老人見習いの2人が、いかにたくさん食べたかがわかるだろう。

 Kさんに連れられて、マッサージに行く。
新亜大酒店の向かいにある店が、Kさんのご贔屓の店である。
1時間で40元が相場だという。
若い女性が力を入れて、2時間ばかりみっちりと揉んでくれる。
頭、手、足、と揉んでもらいながら、僕は眠ってしまった。

 マッサージが終わったのは、11時を過ぎていた。
僕はホテルに戻って、あらためて眠りに落ちる。
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