団塊男、中国を歩く    雲南地方から広州へ  
2000.12.記
01.川崎から昆明へ 02.昆明の街にて 03.石林往復 04.大理:下関と古城
05.景洪へ飛ぶ 06.景洪からのバス旅行 07.昆明へ戻る 08.南寧から憑祥へ
09.欽州から広州行き 10.大都会の広州では 11.Kさんと広州 12.帰国すると


08.南寧から憑祥へ

 8時頃に目が覚めると、ガラス窓にはびっしりと結露の水滴がはりつき、外が寒かったことを示している。
午後の列車に乗ればいいのだから、今日はのんびりとしたものだ。
あてもなく街へでて、5番のバスに乗る。
別にどこに行こうという気はない。
バスに乗って終点まで行ってみるのだ。
そして引き返すだけ。

 路線バスからは街がよく見え、人々の生活がよく判る。
同じ1元の乗車賃であっても、路線によって乗っている人の風体が違う。
5番のバスに乗っている人た ちは、身なりが良い。
人民西路をはしってきたバスが、終点に着いた。
ところで、路線バスには女性の運転手をよく見かけるが、長距離バスでは見たことがな い。
なぜなのだろうか。

 バスの終点から、来た道を戻る。
弱い日を浴びながら、街を歩く。
ときどき立ち止まる。
そして、しげじげと観察する。
目があうと、互いににっこりと笑う。
写真をとる。
また歩き始める。
歩道や木陰で麻雀をやっている人、将棋に興じる人、カードに熱い人、路上で物売りをする人など、街はいくら歩いてもあきない。
途中で食事。また定食屋である。

 どのくらい歩いただろうか。
北京路へ戻ってきた。
昆明駅のほうへ歩く。
錦華大酒店で円から元へ両替する。
外貨の両替は中国銀行で行うが、一流ホテルでも可能である。
ただし、僕が泊まるような安ホテルは両替しないことが多い。

 錦華大酒店はデパートを併設した大きなホテルである。
ロビーも広く、いかにも高価そうだ。
日本からの客も多いらしく、ホテルには日本語を話す人もいる。
足揉みを発見。景洪でやりそこねた僕は、ただちに入ってみる。

 狭い室内には、先客が3人ほどいる。
足揉みする人はすべて若い女性。
全員が白衣を着て、スペシャリスト風である。
高級ホテルのなかなので、路上だった景洪とはちょっと様子が違うが、僕も椅子に座る。

 靴下を脱がされて、ズボンがたくし上げられる。
直径50センチくらいの桶にお湯が運ばれてくる。
そのなかに両足を入れる。
熱い。
足が入れられず持ち上げ たままにしていると、部屋中の人が笑う。
なにがおかしいのか判らないが、おかしいのだろう。
和気藹々といった雰囲気。

 足揉みは気持ちいいが、女性だからだろうか力がない。
指圧というより、マッサージといったほうがいい。
膝から下をまんべんなくマッサージしてくれる。
1 時間近くかかったろうか。
途中でウトウトしてしまう。
これで100元である。
景洪でやってくるべきだったと、後悔するがもう遅い。
でも足が軽くなった。

 錦華大酒店のまえには、オープンカフェがあった。
ここは高い。
しかし、お茶だけを飲むことができる。
食事をすればどこでもお茶は無料だが、お茶だけ飲むことができないのだ。
喫茶店がないところでは、お茶するのが大変なのである。
お金をだしてお茶を飲む、そんなことは考えられないのだろう。
お茶だけ飲ませる喫茶店など、わが国だってほとんどない。

 ここではカフェオレができるという。
ちょっと興味がでた。
昆明のカフェオレとは、どんなものだろうか。
注文してみる。
運ばれてきたのはカップに入った コーヒー牛乳だった。
歩道から年老いた男性が手を差しだす。
物乞いである。
僕はいくばくか喜捨する。

 カフェオレを飲みながら、北京路を見る。
何人もの人が行き交い、歩道では小物やさんが店開きしている。
ただ佇んでいる人も多い。
そのなかで1人の老女から中年の男性に、弁当箱くらいの新聞の包みが手渡された。
すると、100元紙幣が10枚近く老女に手渡された。
そして2人は、そそくさとその場を離れたのである。
僕は驚いた。

 数百元のお金といえば、こちらでは1ヶ月分の給料に匹敵する。
中国人が100元紙幣を受け取るときは、偽札かどうかくクチャクチャピンピンと確認する。
100元紙幣はそのくらい価値がある。
それが10枚近いとは、とんでもない金額である。

 そんな大金が大勢の見る路上でやり取りされたのである。
決して裕福そうではない老女の手へと、数百元が手渡された。
一体あの包みは何だったのだろうか。
何だか犯罪の匂いがしたが、路上はさっきと変わらず、大勢の人が歩いているだけだった。

 3時過ぎ、昆明駅へと向かう。
列車は16時09分発である。
待合室へはいる。
硬座席と軟座席では、待合室も違う。
硬座席の待合室は団体さん専用といった感じだが、軟座席の待合室は応接間風である。
ソファがゆったりと並び、お茶の用意もある。

 人民軍の将校らしき人が、2・3人ばかり窓際のソファに座っている。
そのまわりを若い兵隊がとりまき、そこはちょっと別世界である。
若い兵隊さんが、しきりと走り使いをしている。
そのたびに僕の前をすまなそうに横切る。

 乗車の案内があり、女性係員の誘導に従ってホームへと向かう。
列車はすでに入線している。
別行動の人民軍とホームですれ違う。
退役する将校の見送りらし い。
若い兵隊が4・5人、たすきを掛けて赤い花輪をつけている。
こちらでは退役する人ではなく、送る人が花輪をつけるらしい。

客車の乗り口にたつ女性の車掌さん


 客車の乗り口には、それぞれ女性の車掌さんが立っており、威厳をもって切符を見る。
20輌くらい連結された長い列車のわきに、規則的に車掌さんが立って いる風景は、なんだかユーモラスで長閑である。
発車間際、ホームの屋根と列車の屋根とのあいだから、光が落ちてきて不思議な空間を作っている。

 軟座席の室内は完全なコンパートメントである。
硬座席が3段ベッドの6人収容だったのに対して、こちらは2段ベッドの4人部屋である。
しかもベッドはクッションが良く、寝心地が良さそうである。
窓際には湯飲みの用意があり、その下には熱いお湯の入ったポットがおかれている。
しかし、お茶の葉はない。

 4人部屋だが、乗客は僕入れて2人だけだった。
僕の前には、趙さんという18歳の学生さんが座っている。
まったく英語がわからない。
筆談である。
ホテルからもってきたティーバックを、趙さんにあげる。
2人でお茶を飲む。

 隣のコンパートメントは女性ばかり3人である。
その隣は男女のカップルがいる。
中国のコンパートメントは男女別だと聞いていたが、必ずしもそうではないらしい。
各車両には専属の車掌さんが乗っており、言葉がわからないながらも何かと気を使ってくれる。

 列車が発車すると、車掌さんはまず切符を調べにきた。
彼女は切符を受け取ると、それを4つにたたんで自分のバインダーにはさむ。
そして、引き替えに乗車票と書かれた横2センチ縦5センチくらいの小さな金属片をくれた。
これが切符の代わりらしい。
これは降りるときに回収される。

 列車が走り出して5分としないうちに、停まった。
レールが湾曲したカーブで停まったので、列車はすこし傾いている。
通路に人がでてきた。
列車の先頭のほうへ、人が走っているのが窓の外に見える。
ちょっと異様な雰囲気である。

 僕は窓を開けて首をだす。
湾曲したレールに列車の前後がよく見える。
先頭から4輌目あたり、線路の脇に人だかりがする。
よくは判らないが、どうやら人身事故があったらしい。
しばらく現場に停まっていた。
列車はまた動き出した。
車内では何の案内放送もない。

 年代物の車輌にもかかわらず、列車は揺れが少ない。
保線がとても良いためだろう。
ときどき表れる隣の路床をみると、コンクリートの枕木が並び、砂利がき ちんと敷きつめられている。
線路のあいだだけは砂利がへこみ、充分に管理が行き届いているのがわかる。
ポイントの付近は、木製の枕木になっているのも驚きである。
ロングレールではないのに、線路の継ぎ目をあまり拾わないのはなぜだろう。

 食堂車が隣にある。
ワゴンにのって弁当が車内販売にむかうのが見える。
そろそろ夕食の時間である。
僕は食堂車にでかける。
注文は男性の乗務員にする。
そして、その場でお金を払う。
待っていると、女性の乗務員が料理を運んできてくれる。

 料理を待ちながら、はたと気がつき、2人で食事をしようと趙さんを呼びにいく。
彼は嬉しそうにやってきて、僕の前に座った。
ビールをすすめるが、彼は飲まない。
料理が運ばれてくる。
何だかテーブルの上が寂しい。
もう1品とりたい。
僕は

「我要」
と書いて、隣のテーブルを指さした。
すると趙さんはただちに了解し、女性乗務員に伝えてくれた。
料理は待っていたように素早く運ばれてきた。

 食事は人の心を開く。
趙さんと僕は真剣に食べた。
趙さんが僕におかずを運んでくれる。
彼は自分の食べ箸でおかずをつかみ、僕のご飯の上に運んでくれる。
食べ箸で相手におかずを運ぶことには、何の抵抗もなくなった。
むしろそれは目上の人への、親愛の情の表現なのだ。
ここでは個人という概念が未発達だから、 個体の識別が曖昧なのだろう。
それは母親が、赤ちゃんに食べさせるときのことを思い出せば、簡単に納得がいくだろう。

 大きな丼にはスープがなみなみと運ばれてきた。
それにもレンゲが2本おかれている。
各自が小さな小鉢に分けることはしない。
レンゲで丼から直接にスープ を飲むのである。
もちろん、スープの具は食べ箸で各自が口に運ぶ。
この食堂車の味付けは、薄味で僕には美味く感じられたが、趙さんには辛さが足りないらし く納得していなかった。

 お茶をたのむ。
しかし、熱烈服務中の女性乗務員は返事をしてくれない。
趙さんによると、お茶はでないそうである。
通路を隔てたテーブルに座っている若い 男性が、興味ありそうにこちらを見る。
にやっと笑う。
そして、僕たちのテーブルへとやってくる。

 彼はカメラマンだという。
この先に景色のいいところがあり、そこへ写真を撮りにいくらしい。
カメラマンという職業が、昆明でなりたっていることに僕は驚 いた。
カメラバックのなかを見せてもらう。
キャノン55が1本の交換レンズと共に入っていた。
裕福になるに従って、中国のカメラマンも膨大な機材を運ぶよ うになるのだろうが、彼が軽装備なのに好感を持った。
写真を撮るには、1台のカメラとフィルムがあればいいのだ。

 列車は夜の闇を突き進んでいる。
車窓は真っ暗である。
ときどき遠くにぽつんと明かりが見えるだけ。
それだって、とにかく暗い。
かすかに山並みのシルエッ トが見えるだけ。
他には何も見えない真っ暗闇が広がる。
夜は暗いのが当たり前なのだ。
いつからか明るい夜に馴染んでしまい、夜の暗さを忘れてしまった。
暖房のよく効いた室内は暖かい。
ザックのなかから白酒のポケット瓶をとりだし、ちびりちびりやりながら眠りに落ちる。

 6時半、南寧着。
人の流れにしたがって改札口を出る。
南寧は通過点であり、すぐ憑祥に向かいたい。
駅前で長距離バスの発着所を尋ねる。
すると後ろから誰かが肩をたたく。
趙さんだった。
彼は食事をおごられたせいでか、あの後も自分のバックからいろいろな食べ物をだして僕にくれた。
僕たちは何となく気があったようだ。
彼がバスの発着所まで道案内してくれる。

 10分と歩かないうちにバス発着所に到着する。
憑祥行きの切符を買う。
何とこのバスは寝台バスだった。
車内は二段に仕切られている。
下のベッドはちょうど座席の高さにあり、座席の面でそのまま寝ころんだような形になっている。

 下のベッドに座ると頭がちょっとつかえる。
その上にもう一段ベッドがあるのだ。
客は梯子を使って上のベッドへと上るのだ。
バスの天井がいくらか高くなっているので、上のベッドも何とか座れるくらいの天井高はある。

 僕がバスに乗るのを見送って、趙さんは手を振りながら離れていった。
運転手さんのすぐ後ろのベッドが僕の席だった。
座席の巾のベッドだからゆったりはしていない。
しかし、足が伸ばせるのは楽だ。
布団と枕が貸し出される。
みんな思い思いの格好でベッドに横たわっている。
中国ではこの手の二階建て寝台バスが、さまざまな路線を走っている。

 途中で何度も停まり、そのたびに客が降りたり乗ったりする。
5時間くらい走っただろうか、検問所があり係官がバスに乗ってくる。
国境へ近づいているのがわかる。

 憑祥はベトナムとの国境の町で、北京発ハノイ行きの列車もこの街にはとまる。
最近ではベトナムと中国は辺境貿易が盛んで、荷物の行き来が激しくなってい る。
それにともなってベトナムからの人間も入ってくるのだろう。
国境警備に神経をとがらせている。

 正午をだいぶまわって、憑祥のバス発着所に到着。
次の行き先、欽州をバスの路線図から捜す。
大丈夫、直通バスがある。
明日の切符を買おうと、欽州と書い た紙を窓口にだす。
すると朝の7時発だけだという。
1日に1本しかない。
7時発ということは、6時起きである。
でも、それしかなければ仕方ない。
27元を 支払って、切符を買う。
これで街にでることができる。

 この街にはホテルもたくさんあるようだ。
今夜の宿を決めなければと、バス発着所の外へでて歩き始める。
繁華街のほうへ歩き始めるが、後ろを振り返るとバス発着所にホテルの看板がでている。
明日が早いから、ここにしたい。
50元だという。

 部屋を見せてもらう。
ダブルベッドが1つ、部屋の真ん中にデーンとあり、バスルームが右手の奥にある。
部屋もシーツも清潔。
窓が広く明るい。
ここはバス タブがなく、シャワーだけである。
シャワーの真下にはトイレがあって、トルコ式のしゃがむタイプの便器が床にはめ込まれている。
洗面器は別にある。
石鹸も、歯ブラシもある。
テレビもある。
今夜はここに泊まることにする。
宿代と保証金で、100元とられる。

 部屋に戻ってトイレにしゃがむ。
すると頭の上に水がぽたり、またぽたりと落ちてきた。
思わず上を見たら、今度は水滴が顔にあたった。
 
 荷物をわけ、ただちに外出する。
三輪タクシーを拾って友誼関をめざす。
明朝7時のバスで発つことになったので、今日の午後しか憑祥にはいることができない。
中越互市点も見たいし、僕は忙しいのだ。
 
 三輪タクシーは風をきって、がんがんすすむ。
でも他の車にはどんどん抜かされていく。
125CCのオートバイに荷台をつければ、非力なのは当然である。
道の端を急いで走る。
三輪タクシーの荷台にはスプリングというものがない。
路面の凹凸を容赦なく拾う。
それでも三輪タクシーは検問所のゲートをくぐり、水 すましのように機敏に走る。

 ベトナムとの国境である友誼関は、憑祥の街から20キロほど南にある。
中国には昔から9つの関所があったらしい。
いずれも外敵から国を守るための関所である。
その一つが友誼関で、かつては睦南関と呼ばれていたが、最近になって改名したという。

 山間の道を上りつめた頂上に友誼関はあった。
友誼関の見学に、10元取られる。
石造りの重々しい建物の下が通れるようになっており、この建物の上でホー チミンと周恩来が会談をもったという。
その写真が展示されている。
近くには西洋風の国境管理事務所がある。

友誼関の建物

 友誼関の建物をくぐり300メートルも下ると、ほんとうの国境ゲートが見えてくる。
その左手には売店があり、土産物や飲み物を売っている。
赤白の棒が1本、横に渡された先には進むことはできないが、荷物を満載したトラックはゲートを開けて通る。
向こうに近代的な建物が見える。
あの建物はどちらに属するのだろうか。
トラックの運転手がその建物に入っていく。

 この関所を守るために、付近の山の頂上に大砲が据え付けられた砦があるという。
何カ所かあるらしいが、三輪タクシーの運転手さんと一番近いところに登る ことにする。
運転手さんは気安くすすめてくれたが、きつい階段が延々と続く。
途中で何度も休憩しながら、汗をかきながら頂上に向かう。
若い中国人の観光客 たちも、息を切らせながら登っている。

 頂上に近くなると、少し平らな場所にでた。
そこには畑があり、野菜が栽培されている。
そして、豚まで飼われているのだ。
峻厳な階段しか道のない砦では、 国境警備も自給自足かと僕は感動した。
しかし、それは大間違いだった。
自給自足には違いないのだろうが、反対側からは大型車が上ってくる。
しかも、頂上に は立派な建物もあり、大勢の人民軍が駐屯しているのだった。

 砦に近づいたら、警備の人民軍兵士が僕たちを呼び止めた。
運転手さんが僕を指さして、
「ジーポン」
と言う。

 警備員はパスポートを出せという。
砦に登るには、パスポートを預かるという。
それはかまわないが、預り証が欲しいと僕。
係官はもっともだとうなずくが、 彼は一人で判断ができない。
僕らを待たせて建物のなかに走っていく。
上官の指示を仰ぎにいったのだろう。

 上官の返事は立入禁止だった。
中国人の観光客たちは砦にいるのに、日本人の僕は立入禁止である。
そんなと言っても、もう駄目である。
人民軍兵士は熱烈服務中なのだ。
運転手さんが僕に
「アイム ソーリー」
と英語で言った。
これだけは知っているらしい。
砦からの展望を楽しみに石段を登ったのに、階段をむなしく下りてきた。

 国境ゲートの前に戻り、ココナツジュースを飲んで一休みする。
運転手さんにもココナッツジュースをおごる。
急な階段を上ったので、足がふるえている。
若い運転手さんも汗ビッショリである。
彼が写真をとってくれる。

 中越互市点に向かう。
友誼関から来た道を5キロほど戻り、T字路を西のほうへ折れる。
舗装はされているが、車が1台通れるくらいの道幅である。
それが山 の中腹をうねうねとぬっていく。
ゲートをくぐり、ここで入場料を1元とられる。
工事中のところをすぎて道が下ると、そこが中越互市点の1つ弄堯である。

 弄堯は最初に開かれた中越互市点だという。
道の両側には小さな店が建ち並び、谷底までそれが続いている。
店並は500メートルくらいあるのだろうか、谷の底には馬蹄形型に建物が並び、真ん中が広場で、駐車場になっている。
広場の周囲にはきりたった岩が立ち並び、穴の底にいるような感じがする。
ここなら密輸はできないだろう。

店の前では麻雀をする人


 中越互市点は想像していたのとはまったく違った。
市場というには規模が大きいのだ。
建物の二階には洗濯物が干され、生活の匂いがする。
広場には子供が遊び、店の前では麻雀をする人がいる。
ここは小さな街である。

 谷の一番深いところからは、狭い道がなお谷の下へと延びている。
それがベトナムへ通じる道らしく、すぐにゲートがあり人民軍兵士がいる。
そのゲートをく ぐって、天秤で荷物を担いだ人がせわしなくやってくる。
ベトナム人と中国人は、そのゲートをくぐって行き来できるが、他の国の人間は通行禁止である。
しか し、写真の撮影は禁止されてはいない。

 もう1ヶ所の中越互市点である埔塞にむかう。
弄堯が人海戦術の互市点だとすれば、埔塞はトラックのための互市点である。
埔塞も周囲を切り立った岩に囲ま れているとはいえ、弄堯よりはるかに規模が大きい。
埔塞のほうが広いせいか、閉所感がない。
大型トラックが荷物を満載したまま、中国領からベトナムへと向 かう。
道路の整備が進行中で、いまでも拡大しつつある。

 ここでは紫檀などの唐木細工がさかんで、店先で加工している風景がいたるところにある。
大きなテーブルや椅子、物入れなど精巧な細工がほどこされているが、買って帰るわけには行かない。
また、大きな焼き物も売られている。
人の背丈もあるくらいの花瓶が500元だという。

 すでに暗くなり始めた空には、星が瞬き始めた。
焼き鳥のいい匂いに誘惑される。
運転手さんを誘って、鶏の足先を注文する。
鶏のモモではなく、足先である。
枯れ木のようにだらんと下がって、足首から下が串に刺さっている。
それを炭火のうえで、タレをつけながら焼くのである。
こんがりとした香りとともに、あつあつのところをこりこりと食べる。
芯になっている骨は硬くて食べられない。
舌で上手くかみ分け、骨を地面に吐き出しながら、軟骨の部分を食べるのであ る。

 すっかり暗くなった道を憑祥にもどる。
憑祥北駅前で三輪タクシーをおりる。
駅前からホテルまでは1キロもない。
市場はすでに閉まっている。
途中の定食屋 さんで夕食をとる。
ぼんやりと灯された街灯が道を照らしている。
小さなインターネットの店には、若者が数人ばかりたむろしている。
僕もメールをうってみ る。
ここは日本語がでない。仕方なく下手な英語でメールをうつ。

 ミカンを買ってホテルに戻る。
明日の朝、6時に起こしてくれるように頼む。
モーニングコールの意味が分かったのか、ちょっと不安である。
シャワーを浴びて、ベッドにもぐりこむ。すでに10時を過ぎている。
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