匠雅音のインド旅行記

インドの空気と団塊男    1997.12.記
01.はじめに 02.インド到着 03.カルカッタ市内へ 04.ホテル リットン
05.カルカッタ市内にて 06.インド第1食目 07.列車の切符を買う 08.床屋さんと夕立
09.シャワーをつかう 10.イギリスの支配 11.カーリーテンプル 12.路面電車
13.カルカッタ素描 14.ハウラー駅 15.ブッタガヤの入り口 16.お釈迦さんのブッタガヤ
17.おんぼろバスの旅 18.バナラスィーにて 19.ガンジスへ 20.アグラへの準備
21.タージマハール 22.アグラフォート 23.ピンクのジャイプルへ 24.パンク! オートリキシャ
25.エアコンバス 26.国際高級ホテル 27.デリー 28.さようなら

25.エアコンバス
 バス・ステーションには、見るからにかっこいいバスが停まっていた。
インドで初めて見る新 品のバスだった。
無傷! 
バスのまわりを眺め回すが、車体のどこにも傷はない。
扉をあけてバスに乗ると、運転台の後ろには、スモークガラスの仕切がある。
そして、そこにも扉がある。
その扉を開けると、客席が並んでいた。
エヤコン バスは高い料金をとるだけあって、ゆったりしていた。 

 もっと驚いたことは、乗客の人種が今までのバスとは、まったく違ったことである。
重役風の男、明らかに金持ちと判る風体、高価そうな腕時計、金のネックレ ス、上等なバック。
風体と言い、持ち物と言い、高級そうである。
女性はわずかで、ほとんど男ばかりだったが、いずれにせよ彼等はみな上流階級の人間だろ う。
無口で上品な雰囲気。
ここではアジアのバス特有の、割れたスピーカーから流れる大音響の音楽もない。
バスのなかはいつになく静かだった。
喧噪とは庶民 のものなのであろうか。 

 バスの料金は、1人250ルピー。
40人乗りとして、10、000ルピーである。
バスを購入する資金が必要としても、1回の運行で10、000ルピーが売り上がる。
サイクルリキシャのおじさんたちには、想像もつかない金額だろう。
金持ち たちは金があるがゆえに、ますますお金が増えていく。 

 このバスの乗客であるインド人たちは、ほとんど西欧化した生活をしているだろう。
男たちは誰も民族衣装を着ていない。
インドの伝統を捨てれば捨てるほど、裕福になっていくに違いない。
急激に近代化を迫られる今後、インド的なるものはどこへ行くのだろう。 

 バスはニューデリーに向けて、定刻に出発した。
6時間の道中で、休憩が1度あった。
しかもそれは、今までの休憩所とは違った。
きちんとトイレがあって、こ ざっぱりと清潔なカフェテリア形式の食堂まであった。
ところが、バスの車内ではあれほど上品だった人たちが、レジの前に並んで、順番が待てない。
横から割 り込んで平気なのである。 

 僕の前には3人しか、いなかったはずだったが、列は横に拡がって、いつの間にか7人が並んでいた。
列をつくって並ぶ。
自分の順番まで待つ。
それも近代が作り出した生活のルールなのだ。
なぜなら農耕社会では、並ぶなんてことは誰も経験しなかったから。 

 上流階級に属するインドの人たちは、外見上はすでに西洋化している。
革靴をはき、背広を着て、高級な腕時計をしている。
色が少し黒いのを除けば、西洋人と変わらない。
つまり金持ちであればあるほど、物質的にはたちまちのうちに近代化される。
物的な文明開花はたやすい。 

  しかし、近代社会でつくられた生活習慣は、簡単に体得することは出来ない。
その社会が近代化するのと平行して、社会的な教育を受けながら、身につけていくのである。
これは金では買えないものなのだ。
つまり、二世代三世代とたたないと、新たな時代の文化や習慣は身には付かない。
三世代、約100年たって初めて、その社会に存在した以前の文化を浸食し尽くして、新たなインド的近代人が根付いていく。
文化が文明の影絵のゆえんである。 

  ニューデリーについたのは、10時を過ぎていた。
オートリキシャの運転手が、たちまち殺到してきた。
なぜか殺気立っている。
客が少ないのだろうか。
僕の乗っ たオートリキシャは、暗いオールドデリー駅の裏を通って、僕を不安に陥れながら、ホテルまで運んでくれた。
このホテルもドル払いである。 

 僕は旅のうちの1泊を、その国の最高級のホテルに泊まることにしている。
明日が最終日、最高級ホテルを捜す。
どこの国でも高級ホテルは、予約が必要であ る。
まず電話を入れたホテル タージ・マハールは、満室だと断られた。
ザ・オベロイに予約がとれた。
1泊が305ドルである。
それに税金やサービス料など が加算される。
すると、400ドルは越えるだろう。
今までの9日間で使った全金額より高い。 

 明晩の予約が取れたので、ビールとサンドイッチのルームサービスを頼む。
英語が聞き取りにくい。
ロイヤルピジョンが無く、ブラックラベルだという。
ブラックラベルはやや濃い味である。
それでも、疲れた体にビールがうまい。 

 風呂に入る。
体をのばす。
熱いお湯が実に心地よい。
蛇口をひねるとお湯の出る生活、冷蔵庫に食べるものが蓄えられた生活、冷暖房の完備した室内。
近代文明 は人間に贅沢を教える。
お湯が出なくても、冷蔵庫が無くても、僕だって生きていける。
しかし、そうしたものがない生活は、僕にはもはや考えられない。 

 水洗トイレを知った人間には、汲み取りトイレが使えない。
ましてや手でお尻を拭くなんて、日本では考えもつかない。
たっぷりとした熱いお湯のなかで、体がとろけそうになる。
けれども、とろけてはいけない。
ここで、次のことを確認せねばならない。 

 自然を讃美するのも良い。古き良き昔を懐古するのも良い。
けれども、厳しい自然の掟を逃れ、少しでも快適な生活をつくろうとしてきたのが、ながい人間の歴史である。
歴史の始まりにある狩猟採集の時代を除けば、長かった農耕時代には、地面の上に這いつくばって、身を粉にして働かなくては庶民は生きてこれなかった。
しかも、その時代には強力な支配者が富をその手に集中し、貧富の差が激しく開いていたはずである。
社会福祉など存在しなかった古き良き昔は、厳しくつらい社会でもあった。 

 ギリシャの哲学をたたえる人がいるが、あの時代に哲学を語って快適な生活を享受できたのは、人口の1割もいなかったに違いない。
農業が主な産業である社会は、自然の秩序に従わざるを得ないから、血縁といった身分秩序が固定する。 

 古き良き時代は、生まれによってその人の一生が決まり、奴隷に生まれたら一生にわたって奴隷のままである。
各自の作為を働かせる余地はきわめて少ない。
だから農耕社会では、人間のあからさまな上下関係による支配が不可避なのである。 

 それが工業社会になることによって、一般の庶民まで、快適な生活が可能になった。
人はパンのみに生きる者ではないが、物質的な快適さを求めるのは人間の本性である。
だいたい庶民が外国まで観光旅行に行ける国は、この地球上でもそう多くはない。 

 農耕社会で今日的な次元での満たされた生活をしようとしたら、多くの人々が犠牲にならなければ不可能である。
農耕社会に生きた人の精神的な気高さを讃美する人がいるが、それは他の人の大きな犠牲の上に成り立っていたはずである。
物質的な充実と精神的生活を切り離すことは不可能である。
物質的な欠乏を見ず に、精神の気高さをもてはやすのは、裕福な生活にある自分が見えたないし、血の通った人間を見ていない。 

 農耕社会にだって娯楽はあったし、農民たちだって楽しい生活があったというかも知れない。
たしかにその当時は、農民たちは犠牲になっていたとは感じていな かっただろう。
それは今でもインドの路上生活者たちが、犠牲になっているとは感じていないのと同じである。
貧しい庶民は生活に忙しく、不満を相対的に自覚 する時間がない。
とにかく今の、今日の食べ物が欲しいのである。
犠牲とは今から見た表現であるが、今に生きる人間を考えるのだから、今の生活水準を前提にする。
だから犠牲なのである。 

 単純な自然讃美、差別に満ちていた農耕社会への旧懐は、是が非でも断ち切らなくてはならない。
手軽にお湯が出る生活。
冷蔵庫に食べ物が蓄えられた生活。
水洗トイレの使える生活。
これらを実現するために、失ったものもあるだろう。
倫理、道徳、親孝行、父権、家族愛などが、失われたと議論される。 

 しかし、こうしたものも本質的には何も失わ れていない。
その形が時代の変遷に従って、変わっているに過ぎない。
しかも失っていったものは、失っても良かったものだ。
時代が下ったから、人間が堕落するなんてことはあり得ない。
むしろ時代が下るに従って、人間はより賢くなっている。 

 子供が残酷な殺人をしたので驚いて、家庭の機能を見直そうと言う。
しかし、古い家庭では男性の身を粉にする厳しい労働があった。
そこには女性の忍従があった。
耐える姿は今の社会にはまったくそぐわない。
そして古い家庭では、子供は小さな時から田畑で働かされたし、学校がなかったから通学なんて誰も考えもしなかった。 

 そして人間の寿命は短かったし、人口の半分以上は文字が読めなかった。
非衛生的な環境は、数十パーセントの乳幼児死亡率となって、人間たちをおそった。
子供が下痢で死んでしまうことは、途上国では今でも変わっていない。 

 農耕時代には人を殺すことは必ずしも悪いことではなかった。
いや工業社会になっても、殺人は必ずしも絶対的な悪とは断言できなかった。
その社会にあった形 での殺人へと、特殊化されたものだけは肯定されていた。
そして、それ以外の殺人は否定されたに過ぎない。
今時代が、情報社会へと動いている。
だから新たな時 代にあった価値観を構築する必要がある。
それは決して、昔を懐古するものではない。 

 よりたっぷりとしたお湯を、どう確保するかといった視点を外しては、今後の社会は考えられない。
欠乏を我慢せよとか、欲望を抑えよと言うのは、残酷な注文である。
豊かな社会を 知ったら、貧乏には戻れない。
誰でも物質的に快適な生活を求めるのは、まったく自然である。
それは工業化でしか実現できない。
だからどこの国でも、そして 誰もが工業化をめざすのである。 

 途上国の人々が、いかに物質的な繁栄を望んでいるか、それに先進国の人は鈍感であってはならない。
そして情報社会は、それを工業社会よりもっとたやすく提供できる。
今や工業社会を実現した国は、情報社会へと進みつつある。 

 途上国では、まず最初に工業化である。
工業化によってその国らしさが失われ、民族のアイデンティティが失われると嘆くのは、工業社会の恩恵をふんだんに受けている裕福なインテリだけである。
貧乏な庶民は、観念を指向しない。 

 インドでも明らかに工業化が始まっている。
インドは歴史の長い大きな国だから、変化には長い時間がかかる。
けれども路上生活者の払拭は、マザーテレサのよ うな精神論では不可能である。
彼女は個人的には立派だと思う。
しかし彼女の生き方は、農耕社会の生き方である。
彼女のような活動では、1人の人を救うはし から、多くの路上生活者を生み出してしまう。 

 キリスト教とりわけカソリックといった古い宗教は、今後は犯罪 的な役割を果たすだろう。
短期的には貧しい者の味方のように見えるだろうが、決して路上生活者の解放には役に立たない。
農耕社会に生まれた精神論や文化そ して宗教は、飢えた子供の前には無益で、しかも敵対的である。 

 精神と物質を分ける思考からは、決別しなけれ ばならない。
これが先進国に住む人間のエゴだといわれても、途上国の人間たちですら、物質的な繁栄をめざしていることは間違いない。
地球上のすべての人間 が、アダルト・チュウドレンといわれる小粒になってこそ、すべての人間にお湯の行き渡った生活が実現される。 

 途上国に来るたびに、理想に走った現実無視のヤワな環境保護論は、無力であると思わざるを得ない。
誰でも自分は水洗トイレを使いたい、お湯に入れる生活を手放したくない、と思うのは自然だろう。
文化の崇高視はやめるべきだし、文明の蔑視は絶対にすべきではない。
文化は文明の影絵に過ぎないのである。
と、熱 いお湯に浸かり、とろけながら考えた。
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